過去の法話集1こちら法話集2こちら法話集3こちら

~ 残せるモノとは ~

 

中川 透冴

 
朝、明け方は秋の気配がしてきました。
 
 先日、読書をしていますと次のような一文が目にとまりました。「人が亡くなったあとに残せるモノは集めたモノではなく与えたモノが残る。」と。
 
私たちは日常、さまざまなモノ(物質)に囲まれて暮らしております。中には何かしらのコレクションといったものを集めるのを楽しんである方もいらっしゃることでしょう。
 
さて、ここからは精神的なモノについて考えてみていきたいと思います。

 天台宗(比叡山)を開かれました伝教大師最澄さまの教えのなかに「己を忘れて他を利するは慈悲の極みである」という有名な教えがございます。自分のことは差し置いておき、周囲のこと、世のため人のために活動ができる人であるように。と諭されてあります。
 
 ときどき思うことがあるのですが、私たちはお買い物をします。その際にお財布のお金を自分だけのことに使うのも間違いではないものの、ご先祖さまへお菓子やお花といったお供えを買う使い方や、留守番をしている家族へお土産を買っていく使い方、募金箱など慈善事業へ寄付をすること、またはお世話になっている方へのプレゼントなど、その使い道は無限に広がります。
 
 先ほど「集めたモノではなく与えたモノ」と言いましたが、お買い物に譬えるならば以上のようなことは、与えたモノになるのではないでしょうか?自分という存在を与えていただいていること、自分の生活を支えてくれていることへのご縁を深めること、恩に報いる行為は尊い「徳」として育まれるように感じます。その「徳」こそが、この世に残せる素晴らしいモノに成ると思いませんでしょうか?与えるモノ、それは他者への喜びを施すことと思います。損得感情に捉われずに「徳を積むこと」。
 
 
 
私たちも何時かはお迎えがやってまいります。そのとき、この肉体さえも手放さなければなりませんが、この世に残せるモノと同時に、唯一あの世へ持っていけるモノも与えた喜び、即ち「徳」だと思いませんか?私たちは本来、生きることを通して徳を積むことを目指さなければならないのかもしれません。
 
お互いに喜びを与え合える暮らし。共に徳を積みながら歩みたいものですね。
 

~ 一心十界 心の在り方 ~

 

 中川 透冴

 
梅雨が明け日増しに暑さが厳しくなってまいりました。
みなさま如何お過ごしでしょうか。

 
今回は「一心十界」という教えをみつめてみましょう。
 
六道輪廻という言葉は聞かれたことがあると思います。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人を六道といいます。この思想は仏教がはじまる以前からのインドの思想からきております。それに四聖である、声聞・縁覚・菩薩・仏を加えると十界となるわけです。
 
子どものころは「わるいことをしたら地獄に落ちるよ!」とか躾をされたものですね。
 
 ここでこの思想の大事なことは、この十界は私たちの心の在り様で仏界にも地獄界にもすべてに通じうるという点ではないでしょうか。
 
 たとえば、トラブルがあったときに「あなたが悪いんでしょう!」と終始カッカと怒って相手を許さない場面があったりしますね。きっとしばらくは怒りも冷めず苛々してしまうでしょう。一方では「私が悪かったんです。ごめんなさい。」とお互いに相手を許し合うような場面も実際あります。まさに仏さまのような接し方ですね。トラブル自体はひとつの現象なのですが、心のはたらき、対処の仕方次第ではその後は変わりますね。
 また今月八月はお施餓鬼会といいまして、十界のひとつである餓鬼へ供養をする法要が寺院によってはございます。この餓鬼の苦しみも、生きている私たちの「我欲」にも当てはまるように思います。もっと欲しい、もっと欲しい、と我欲というものは尽きません。

 
しかし、この我欲を世のため人のための「意欲」へと変化させるとどうでしょう?その先にはきっと計り知れない喜び、満足があるように思いますよね。
 みなさま、如何でしたでしょうか、私たちの生きる姿勢、心の在り様によって十界は

 
常にとなり合わせだと言えると思います。どうぞご自身の行いを仏の子として、世のため人のために働きかけたいものです。
 

世の常識と自分の想い

 

長野 寂照

 
信仰の中においては、私たちの生きる上での世の習い、世の善悪は些細な価値観にしか過ぎません。
 
 
 
それは絶対的な真理が根幹に存在するからです。絶対的な真理とは何か。
 
 
 
それは皆様ご存じの般若心経の中に説かれている「空=くう」です。「空」とは無とは違います。「空」は綺麗なものでも汚いものでもなく、増えるものでも減るものでもなく、善いものでも悪いものでもない、ましてや目に見えるものではありません。しかし、昔から存在し、今の混沌としたがんじがらめの世の中にはきっと役にたつものです。
 
 
 
私たちは、法律・義務・一般常識の中に暮らし、その枠からあふれた人間を悪人と決めつけて生きています。また、それにより社会は形成され、発展したのも事実です。
 
 
 
しかし、この現実の社会は仏教においては「仮=け」の社会、つまりは仮りの社会とされています。目に見えるお金・地位・人間関係果ては花や食料まで全てを仮りの仮装社会と考える事が出来ますか?
 
 
 
目に見えるものばかりを追いかけて大事にしている時には分かりません。人生の一番きつい時、社会にあぶれて自分をせめている時、その受け皿に「空」があります。一番大事なのは社会の常識から全く離れてしまうことです。常識の中でしか生きていない私たちには勇気のいることです。しかし、離れることができ、物事を今までと違う見方が出来るようになればこの世はもっと生きやすくなります。
 
 
 
この世の中は白と黒に分けることで社会が成り立っています。善と悪・好きと嫌い・イエスとノー。しかし、それ以外の答えも存在し、目に見えぬものも存在します。一番きつい時に頑張れないと悪いわけではない。社会にあぶれたわけではなく、今の社会が窮屈なのです。
 
とは言ってもお金・食料・衣服がないと生活できません。そこで「中=ちゅう」の思想が大事になります。「仮」と「空」の中間で自分自身のバランスを保つことが「中」です。自分を責めず、自分から離れて自分を客観的に観る。世の常識と自分の想いその中間から今までと全く違う思想を形成することで新しい価値観が生まれるのです。
 

「戒に基づく生き方」

 

鍋島隆清

 
 みなさまは戒という言葉を聞くと、どのようなイメージを思い浮かべるでしょうか。規則やルールのような、厳しく守らなければいけないものと思われている方がほとんどではないでしょうか。
 
 
 
 仏教において戒は非常に重要で、特に五戒といわれるものが最も重視されています。
 
 
 
 五戒とは「殺すなかれ」「盗むなかれ」「嘘を言うなかれ」「邪淫をなすなかれ」「酒を飲むなかれ」というものです。
 
 
 
 確かに、戒とはこのように「~してはいけない」という表現が目立ち、上から与えられる義務のような、他律的で窮屈な印象を持たれる方もいらっしゃると思います。しかし、戒という言葉の本来の意味を知ると、これまでとはまた違った受け取り方ができるのではないかと思います。
 
 
 
 さて、インドにおいて悟りを開かれたお釈迦様は、真実を見極め、それに基づく本来の人間のあり方や、世界ないし社会における行為や実践のあり方を示しました。私たち一人一人が常に自分を見つめ、真実に立ち返り、自ら判断して、今いる目の前の状況の中で思想や行動を選択していくこと、このような主体的、自律的な生き方を戒といいます。ですから、「~してはいけない」という他律的な生き方ではなく、「私は~しない」という自律的な生き方が本来であるといえます。
 
 
 
 また、この戒の原語の「シーラ(sila)」という言葉には、「流れに従うようなスムーズな行為」、「自然の正しい行為」という意味があるそうです。例えば、私たちが大きな川で泳ぐときも、流れに逆らって泳げばかなりの体力を消耗し、疲れ切って、下手をすると溺れてしまうかもしれません。逆に川の流れに従って、体の力を抜いて流れに身を委ねると、流れは自然に私たちの体を運んでいき、無駄に体力を使う必要もありません(後はお任せするしかありませんが)。私たちの生き方もまた同じで、自然の流れにずっと逆らって生きていくことは苦しみとなりますが、戒に基づく生き方は、自然の流れに従った真実の生き方であり、流れに逆らわず身を委ねた、最も安らかで、最も美しい生き方ではないでしょうか。
 
 
 
 しかし、私たちのような凡夫は、真実に暗く、非常に欲深いため、なかなかこのような生き方をしていくことは非常に難しく大変なことです。それでもお釈迦様の智慧によって真実を知り小さいところから少しずつ、少しずつ、歩みを進めていくことから始めていけばよいのです。
 

~合掌は最良のお守り~

 

中川透冴

 
皆様、こんにちは。
 
今日のお話は実際にあったことをお伝えさせていただきます。
 
 
 
先日、お寺へご信者の方がお見えになられ
 
お守りを受けたいとのことで応対しておりました。
 
信者さんはお守り色々と手にとっては見比べて
 
私へ「どのお守りが一番いいんでしょう?」と申されました。
 
 
 
お話をお聞きしながら、ふさわしいお守りをお渡しさせていただき
 
最後に次のようにお伝えいたしました。
 
 
 
「日ごろ、朝夕をはじめ、何気ないときにおいても、
 
 そっと静かに手を合わせることが、一番のお守りに成ると思いますよ。」
 
 
 
皆様、如何でしょうか?ご利益というものはお札やお守りを通して
 
ご縁を深めていただくもの、安心をいただくものだと思います。
 
その中におき、わたくし達が「掌を合わせる」ことは
 
きっと一つのお守りになると思いませんか?
 
気持ちを静めること、感謝を込めること、自分の心を内観すること。
 
それらに通づる方法は「合掌」だと思いませんか?
 
仏教とは、仏として生きる教えでもございます。
 
 
 
どうぞ日常の暮らしのなかにおかれまして、お参り以外のときも
 
合掌を以ってお互いに拝み合い、苛立ちや惑わしの少ない
 
より清らかに澄んだ日常を、それぞれにお送りいただきたく思います。
 
 
 
有り難うございました。
 
 

「能行不退」

 

角本尚隆 

 
天台宗では、毎年年頭に比叡山から発信する言葉が発表されます。
 
本年は、「能行不退」であります。
 
「能行」とは、伝教大師(最澄)さまが「山家学生式」で示された言葉です。
 
「能く行い能く言うは国の宝なり」
 
国の宝とは、宝石や金銀財宝ではありません。誰もが持って生まれた善の心に目覚め、社会においてそれを能く行い、能く発信していく人こそ国の宝であるという教えです。
 
現在でも、人材こそなによりの財産などと表現されるように、この教えは今でも社会に浸透しています。
 
「不退」とは、途中で諦めずひたむきに前へ進み、たとえくじけそうになっても懸命に取り組むことです。
 
これは、伝教大師さまが示された、僧侶の基本精神であり、現代に生きる私たちにも通ずる人として生きる目標であると思います。
 
皆様においても、心の片隅に置き留めて頂き、今後の生活にお役立ていただければ幸いです。
 

「後悔」

 

 本堀智道

 
 読んで字のごとく「後になって悔やむ」というのが後悔。どんなことだって、先には悔やめませんよね。先に悔やむのを「先悔」なんて聞いたこともありませんね!

  さて、仏教では後悔している人への対応について、6つの決まりがあるんです。
 

  1. 慈心をもって語る(どうしてそんなことをしたんだ!
  2.  感情丸出しにしちゃだめ!
  3. 本人のためになるように語る(だからあの時注意したのに、それを聞かないからそういう目にあったのだ、なんてますます本人がヘコムようは言わない。
  4. 柔軟に語る。
  5. 真実をもって接する(自分が思ってもいないようなことを、したり顔で言わない。
  6. 時に応じて語る。

 
  後悔している人へ、こんな対応ができれば、その人は後悔をバネにできるんじゃないでしょうか。勇気がいるけど、後悔を反省に変えていければ、いいと思います。
 

『言葉の使いかた』

 

井上亮尚

 
普段私たちが何気なく使用している言葉というのは、事象や感情、思考などを伝え、また言葉を用いることで他者との意思疎通・相互理解を成しえる、人間の最も特徴的な能力の一つと言えるのではないでしょうか。さらに音や道具、ボディランゲージなどを活用することで文字・モールス信号・手話・点字など伝達手段は多岐に渡ります。この言葉があるおかげで他者とのコミュニケーションがとれます。
 
 言葉というものは便利であると同時に大変複雑なツールです。我々は言葉を使っていると思っています。《新約聖書「ヨハネによる福音書」第1章》に『始めに言葉ありき』とあります。言葉はすなわち神であり、この世界の根源として神が存在するという意で、人は言葉に支配されているとも言える、ということです。思考と言葉が同位置にあることを忘れてしまうと自分自身はおろか、相手を傷つけてしまうことにもなり兼ねません。言葉にはその時の感情も付加しますので、私たちが思っている以上に言葉というものは存外難しいものです。
 
仏教の大無量寿経というお経の一文に「和顔愛語」とあります。葉っぱには表もあり裏もあります。言葉を発する人の人柄や、人間性が表面に出るものです。心情を穏やかに、相手を想いながら語ること、と説かれています。なお経の続きに「先意承問」とあります。相手の気持ちを察して、相手のために何ができるか、自分自身に問いただすという要約となります。意味はわかっても実践となると難しいのですが、心がけが大切です。言葉の葉の裏に相手を思いやる気持ち「慈悲」を忍ばせておけば、自然と相手を想うことのできる魅力的な話し方になっていくのではないでしょうか。
 
 例えば相手が悲しんでいるのならば本心から励まし、笑顔になってほしければ自分から笑顔で接することetc,,,。うまくいかず気持ちが空回りし、結果独りよがりと感じることもあるかもしれません。ですが相手には思いやる気持ちが伝わるはずです。大切なのはまず相手の気持ちを重んじて接すること、「忘己利他(己を忘れて他を利する)」の言葉をいつでも取り出せるよう、心の引出しに置いておきたいものです。
 
 
 

修正会

 

角本尚隆 

 
明けましておめでとうございます。
 
本年も良い1年でありますようご祈念申し上げます。
 
さて、仏教寺院において正月というと「修正会」があります。
 
修正会とは、正月に修する法会という意味です。
 
何をする法会かといいますと、前年におかしてしまった過ちを仏前において懺悔して悔い改め、新年の除災招福・豊穣安穏などを祈願する法会です。
 
皆さんがお正月に初詣に行き、そこでお祈りされるのと同じようなことです。
 
歴史的には、759年以前より修されていた記録があるそうです。
 
昔から仏教では、日々懺悔し、戒律や過ちをおかしていないか自問する事を大切にしてきました。
 
日本人にはそれが風習として、初詣でのとき前年の懺悔・感謝を報告し、新年の平穏や様々な願いを祈念するのでしょう。
 
近隣のご寺院で修正会がある際は、このことを頭の片隅にでもとどめ、気持ちも新たに新年を迎えてはいかがでしょうか。
 
初詣ではどこも非常に混み合います。懺悔しに行く途中でいイライラしないよう、前年の行いなど振り返りながら、ゆっくり参拝してみるのもいいかもしれませんね。
 
 
 

無財の七施<雑宝蔵経>の中の『言辞施』について

 

 山下光澄

 
皆さん布施を大きく分けて三つございます 
 
一つには 財施・・・福利を人に施すこと
 
二つには 法施・・・仏の教えをもって人を導く事                    
 
三つには 無畏施・・・不安や恐れを取り除いてあげる事
 
もし、私がこの中のどれ一つとしてすることができなかったとしたらと考えます。
 
一つ目の 財施 施すだけの財力を持ってなかったとしたら
 
二つ目の 法施 悩みや苦しみの川を渡してあげるだけの知恵や知識も無かったとしたら 
 
三つ目の 不安や恐れをやわらげ、安らかな世界へ導くだけの力量をもってないとしたら
 
例えば私が重い病の床に伏せっていて動けない状態だったとします
 
でも、そんな中でもできることがあります。それは、無財の七施のなかにある言辞施です
 
看護の方やお見舞いに来てくれたかたに対しての感謝の言葉、たった一言の『ありがとう』の言葉で、暖かい感謝の気持ちをプレゼントできるのです。
 
心からの感謝。たった一つの言葉。それだけでも気持ちが伝われば相手にとって嬉しい事ありません。
 
物やお金も、もちろん大事ですが、それよりもたった一言のやさしい心のこもった言葉の方が大事だと思います。
 
皆さんも暖かい言葉のプレゼントをしてみてください。
 

寺院と僧侶と信仰 

 

今泉順裕

 
       
 
今、日本にはたくさんの寺院があります。宗派を問わないとその数およそ75,000箇寺と言われています。
 
 
 
当然その中には、寺院や僧侶に対して批判される方が少なからずおられます。
 
 
 
「寺は儀式の場所でしかなくなった」「僧侶はその儀式だけに必要なものだ」
 
 
 
実際に私の友人知人からもお聞きします。
 
 
 
仏教で人が救えるのか。
 
 
 
この豊かになった現代社会に適応する働きを寺院と僧侶ができているか。
 
 
 
確かに耳の痛い話です。
 
 
 
かくいう私も会社員として勤務しています。毎日の仏道にも精進できていない有様です。
 
 
 
しかし我々僧侶はこのまま皆様の信仰心が薄れてしまわないように、何とかしようと真剣に考えているところです。
 
 
 
仏教の本質とは、今生きている私達の生きざまを問題にする不滅の教えです。
 
 
 
釈尊はこの世の苦しみを直視し、その苦しみから抜け出る方法を説かれました。どのようにしたら心の平穏が得られるのか、それは信仰と行だと言われています。行と言っても苦しい行だけではございません。例えば毎朝お仏壇に手を合わせ、お経を唱える。座禅をしてみる。日々の生活の中で自分が定めたルールでもいいと思います。物を大切にする。人に優しくする。
 
 
 
その毎日の行動を積み重ねることによって、またその行為を尊く思うことによって、信仰心というものが育っていくと思っております。
 
 
 
皆様の行に寺院という場所と、私達僧侶を、どうぞお役立て下さい。
 
 
 
我々も皆様の「心の拠り所」となれるように寄り添いながら一緒に精進してまいります。
 

「お盆について」 

 

山下 亮恂

 

 

 
毎年、夏になると全国各地でお盆を迎えます。お盆は自分自身のいのちに、目覚める「いのちの祭典」といえます。
 
 
 
その理由として、自分の一代前の先祖。これは両親です。生みの親は誰にでも必ず父と母の二人です。二代前の先祖、祖父母は父方母方の両方に二人ずつだから四人。さらに、三代前の曾祖父母は八人と、扇のように広がっていく「いのち」の道筋です。そこで、十世代、年数にして約二百五十年から三百年位前まで遡ると、一千二十四人の血が流れ、御先祖があって今の自分・私が居る、勘定になるのです。
 
 
 
これらのご先祖たちは、生命と文化を次の世代へ伝えるという大きな仕事を営々と続けてきたのです。その営みで今の私たち自分が在るのです。今度は私たち自分が、この享け継いだ生命と文化を次の世代に伝えるという使命、即ち、最大の仕事が在るのです。
 
 
 
この先祖を遡る道筋を辿ると、扇の広がり、即ち、末広がりで、すり鉢型になる。反対に子孫に向かっての道筋をみると、その数は逆すり鉢型に広がってゆく。その上下のすり鉢の接点に自分が在るのです。自分に兄弟姉妹が在れば、横への広がりもでき、それは正に「他人の始まり」という言葉になるのでしょう。今、現在、縁あって集う人々は横の道の人々です。その横の道という彼方には、今、という時を同じくする「いのち」の人々が多く存在するのです。
 
 
 
過去と未来の接点。それに、横の交わり。これが即ち、現在・今、であり、「いのちの十字路」です。それは、掛け替えのない自分自身、「わたし」の存在する座標軸なのです。お盆は、こうした壮大な過去から未来への生命の連鎖と現在という座標軸を抜きにしては語れない「いのちの祭典」なのです。
 
 
 
そこで、お盆を機会に「いのち」について、ぜひ考えて欲しいのです。
 
 

方便

 

石田琳瑛

 
「方便」という言葉があります。普段の生活で使う機会はそんなに多くない言葉ですし、使うとしても「うそも方便」といった慣用句ぐらいではないでしょうか?「うそも方便」の意味としては、うそは本当は良くないことかもしれないが正しい道に導くためには仕方ない、といったニュアンスです。しかしよく考えてみたら方便って何でしょう?
 
実は方便の由来は法華経の中でたとえ話を使って説かれています。その中でも最初に登場する「三車火宅の喩」は分かりやすい話ですので簡単に紹介します。
 
 
 
ある町にお金持ちがいまして、広大な屋敷に住んでいました。しかしその屋敷は古くなり荒れ放題だったのです。大きな屋敷にもかかわらずなぜか出入り口は1箇所しかありませんでした。ある日突然にその家で火事が起こったのです。火は瞬く間に広がりました。主人はいち早く出口から避難したのですが、子供たちの姿が見当たりません。よく見ると火が迫る中、屋敷で遊んでいるではないですか。主人は子供たちを助けるために「危ないから早く外に避難しなさい」と叫ぶのですが、子供たちは不思議そうにこちらを見るばかりで遊ぶのを止めません。子供たちはまだ火事の怖さを知らないので仕方ないのかもしれません。主人は悩んだ末に違うアプローチをとることにしまして、再度声をかけました。「お前たちが欲しがっていた羊が曳く車や、鹿が曳く車、それに牛が曳く車もあるぞ!」すると子供たちはすぐに外に駆け出してきました。しかしそこには主人が言っていた車など影も形も見えません。子供たちは父がうそをついたことに対して不満を口にするのですが、主人はもっと立派な白い牛の曳く車を子供たちに与えました。こうして子供たちは火事から無事に安全な場所まで避難することができたのです。
 
 
 
このような内容の話ですが、ここにはどのようなメッセージが隠されているのでしょうか?火に覆われた屋敷はこの世の中をあらわしています。主人が仏様で子供らが衆生と考えてください。遊びに夢中になっている子供たちは煩悩に惑わされている衆生のことです。仏からの声かけのみでは導くことができないと判断し、牛鹿羊の車の魅力で煩悩の世界から救い出そうとしています。この三台の車は声聞乗、縁覚乗および菩薩乗の三乗の教えを表しています。実際に子供たちに与えた白い牛が曳く車は一乗の教えのことです。つまりこの話では一乗の教えへと導くために、三乗の教えを利用しています。このように方便とは本来の目的を達成するために仮の方法を用いることでして、自己本位な欲望から発生するうそとは異なります。
 
 
 

「執着を離れる」

 

 光本馨寿

 
 仏教には次のようなたとえ話があります。
 
 
 
 ある人が、長い旅を続け、とあるところで大きな河をみてこう思った。この河のこちら側は危ないが、向こう岸は安らかに見える。そこで筏を作り、その筏によって向こう岸に安らかに着くことができた。そこで「この筏は私を安らかにこちらの岸へ渡してくれた。大変役に立った筏であるから、この筏を捨てることなく、肩に担いで行く先へ持って行こう。」と思ったのである。
 
 このとき、この人は筏に対して、しなければいけないことをしたといえるであろうか。
 
 
 
 このたとえ話は「正しくないことはもちろん、正しいことでさえ執着すべきではない。」ということを示しているものです。
 
 人は有無、善悪、正邪、すべてのものにとらわれて、自ら迷いを重ね、苦しみと悩みとを招いているといいます。
 
 私たちはこの苦しみの原因である執着から少しでも離れなければなりません。自分が何に執着しているのか、自分自身をしっかり内観し、少しでも執着から離れられるよう努めていきましょう。
 
 
 

正見

 

井上泰祈

 
正見には、正しい見解や真理に基づいた考え方などの意味があります。また、修行の基本となる八種の実践徳目である八正道の一つでもあります。
 
私たちが普段生活している中で、物事を正しく見たり、考えたりすることは簡単なようで実はとても難しいことであると思います。例えば仕事をしていて、上司から理不尽なことを言われたり、お客様からクレームを受けたりするとします。すると、心が乱れて上司やお客様に対して不満に思い正しい考え方をするということが困難になると思います。また、場合によってはその不満を引きずり周りの人や物事に対しても冷静でいられなくなることもあるかと思います。そうした際は、一呼吸入れて上司やお客様に言われたことを思い返してみて下さい。もしかすると、自分にも反省するところがあったり、再考してみて得ることがあるかもしれません。日々生活していると怒りの気持ちや、ひと時の迷いで正しい考え方が出来なくなることが多くあると思います。そうした中で、正しいものの見方、考え方を実践しようと努めることが大切なのではないかと考えます。
 
                                   
 
 

開経偈(仏事を行う際に唱えるお経)と法華成仏偈(仏事を終える際に唱えるお経)

菊川恵信


「無上甚(むじょうじん)深(じん)微妙(みみょう)の法は、
百千萬劫(ひゃくせんまんごう)にも遭(あ)い遇(あ)うこと難(がた)し
我(われ)れ今(いま)見聞(けんもん)し、受持(じゅじ)することを得(え)たり
願(ね)わくば如(にょ)来(らい)の真(しん)実(じつ)義(ぎ)を解(げ)したてまつらん」
※作者不明

このお経(開経偈)は、仏事を行なう時に「宜しくお願いします」という意味合いを込めて称えます。中身について話しますと次のようになります。

「この上ない奥深い法(仏教の教え)に出会うのは百千萬劫(無限の時間)を過ぎてもなかなか巡りあうこと難しい。しかし今私たちは幸いにしてお経を見て、仏法を聞き信受することが出来ました。できる事ならば、私たちも如来(仏様たち)の真実の教えを学び歩んでいきたいものです。」

 このように、仏事というのは仏の教えでもありますので、こんな奇跡的な場面に出くわすことは滅多にないのだと自分自身で理解し感じ、仏様によろしくお願いしますという挨拶を込めて開経偈をお称えします。仏教の真実の精神を体得しようとする決意の文ともいえるでしょうか。

法華成仏偈(仏事を終える際に唱えるお経)
「願(ねが)わくば此(こ)の功徳(くどく)を以(も)って
普(あまね)く一切(いっさい)に及(およ)ぼし、
我等(われら)と衆生(しゅじょう)と皆(みな)共(とも)に仏道(ぶつどう)を成(じょう)ぜんことを」

※『妙法蓮華経 化城喩品第七の偈文より』


 この法華成仏偈というお経は、開経偈とは逆に仏事を終える際に唱えます。中身について話しますと次のようになります。

「願わくは、この仏道・仏事を行なって受けた功徳(ご利益)をこの広い世界の生きとし生けるものにすべてに及ぼし、我らと衆生(往きとし生けるもの)が皆共に仏道が成就していこうと思うのであります。」

 仏事の最後に唱える法華成仏偈では、今日この良き時間を過ごしたならば自分だけでなく周りの人たち、もっといえば皆々様すべての世界がこのような良き時間がすごせるように誓願を立てるのです。仏教でいうところの「回向」を端的に表している文といえるでしょう。
ところでこの「開経偈」と「法華成仏偈」、何故この二つの短い文章を先人たちは引用したのでしょうか?

もしやするとこの短いお経の部分に仏教の要となる見方が現れているのかもしれません。それは、慎ましく、皆と生きていこうとするところなのかもしれません。

「 因果と縁 」

 中川透冴

みなさん、こんにちは!
 

今日は「縁」について、今一度みつめてみたいと想います。

 

日頃、私たちは様々な出来事に遭います、嬉しいこと、悲しいこと、楽しいこと、辛いこと・・・時にはビックリするようなこともありますね。

 

生きて生活をしていると、どんな出来事にも遭う可能性もあると思います。

例えば、良い出来事があったときは「ああ、今日はよか日やねー」と思い、わるいことが起こったときは「嫌な一日だったなー」など思ったりするものですね。

 

ここで「良い日」と「嫌な日」というのは、実は重要ではないとしたら如何でしょう?
なぜなら出来事や結果の間には、必ず「縁」という働きが存在しているんですね。

先日、郵便局のATMに用事があり訪れたときのことです。

 

先の方が並んでありました。お一人目の方が作業を終えて出て行かれる際に「お待たせしました。」と会釈をされて行かれました。自然なことですね。

 

続いて、お二人目の方が作業を終えて出て行かれる際のことです。

 

そのまま無言で出て行かれました。

 

一人目の会釈、二人目の無言。待っている側としては如何でしょう?

 

声をかけられたり、会釈をされる方がなんだか気持ち良く感じませんか?

 

無言で立ち去られると少し不快さが残りませんか?

 

待つ、という行為は同じなのですが、「会釈をされる」と「無言で去って行かれる」ではその後に残る人の気持ちは変わってくるものです。

仏教では「縁」という事をよく説きます。良かったこと、悪かったこと。

 

それらの結果にとどまらず、そこからどう心を運んだらよいのか、人のよろこびに繋がるのか? 

 

ことわざに「禍 転じて 福となる」とございますね。

 

心を運ぶこと、禍を転ずること、それは則ち新たな「生き方」となって、あなた様のまわりを平等に照らす灯りとなり得るものです。

 

そう気づくと「あの時の嫌だった出来事」も、どうやったら良い方へ結べるのかな?と心もより豊かなものになってくるのではないでしょうか。
 
仏前へお供えします灯明は「智慧」を表すものです。仏様の御前にて静かに掌を合わせるとき、生き方(気づき)をみつめ直す時間にもなると思います。

 

どうぞ、物事の結果にとらわれず、間には「縁」という働きがあることを念じてその縁を人々のよろこびに繋げることの出来る暮らしを送りたいものです。

 

花祭り

 鷲岡嶺照
 

花まつりでは、お花で飾られたお堂(花御堂)のなかに甘茶を入れたお盆(浴盆)を置き、そこに、右手で上を、左手で下を指し示したお釈迦さまのお誕生の姿をあらわしたお像(誕生仏)を安置し、柄杓で甘茶を頭上からそそぎます。
 
 子供の頃、甘茶をもらって飲んだ記憶のある方も多いのではないでしょうか。
 
 花御堂は、お釈迦さま誕生の地ルンビニ園を、誕生仏は、お生まれになってすぐ七歩あゆまれて「天上天下唯我独尊」と言われたそのお姿をあらわします。
 
 そして、お釈迦さまの誕生を慶び、天に九匹の龍が現れて、甘露の雨を降り注いだ、という様子を模して甘茶をかけるのです。
 
 ちなみに、経典では「甘露の雨」は香湯あるいは香水となっており、昔は五香水とか五色水という香水を用いていたようです。
 
 今のような甘茶を使うようになったのは江戸時代からと言われますがはっきりしません。
 
 ともあれ、釈尊がお生まれにならなければ仏教は今に伝わっていません。仏教が今の世に伝わっていることに感謝してお寺にお参りしましょう。

作詞作曲:中島みゆき
 

なぜ めぐり逢うのかを
私たちは なにも知らない
いつ めぐり逢うのかを
私たちは いつも知らない
 
どこにいたの 生きてきたの
遠い空の下 ふたつの物語
 
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かを
暖めうるかもしれない
 
なぜ 生きてゆくのかを
迷った日の跡の ささくれ
夢追いかけ走って
ころんだ日の跡の ささくれ
 
こんな糸が なんになるの
心許なくて ふるえてた風の中
 
縦の糸はあなた 横の糸は私
織りなす布は いつか誰かの
傷をかばうかもしれない
 
縦の糸はあなた 横の糸は私
逢うべき糸に 出逢えることを
人は 仕合わせと呼びます
 

素晴らしい歌ですね。今でもたくさんのアーティストの方がカヴァーされています。
一人一人の細いご縁の糸も縦横織りなせば一枚の布になる。出逢いは宝です。この仕合わせを大事に日暮ししていきたいものです。

大般涅槃経とは

一人一人が自分なりに実践することが、世界を幸せにする第一歩となるでしょう。それが一隅を照らす精神なのです。
「大般涅槃経」には「自燈明・法燈明」という教えが説かれています。
 
これはお釈迦様が入寂される前の最後の教えの一つと云われています。
 
弟子が「お釈迦様亡き後、何を拠りどころに生き、何を拠りどころとして修行して行けば良いのですか?」という問いかけに対し、お釈迦様は「自らを燈明とし、法を燈明とせよ。他を拠りどころとしてはなりません。」と説かれました。
 
これは「私がいる、いないに関わらず、私の説いた教え(法)を大切にし、それによって修行しなさい。そして自分自身を見つめ、自身を拠りどころとしなさい。」という意味です。
 
教え(法)に従い自らを研鑽し、自己を見つめ反省することにより、他者と比較すること無く、自分の生き方に自信を持ちなさい。といっているのではないのでしょうか。
 
現在日本では、他人の目を気にし、他人と比較して生きる。まるで他を拠りどころとしているような人が多い気がします。
 

それが一因でいじめや差別、自死、うつ病などの社会問題が増えています。こんな時代だからこそ「自燈明・法燈明」の教えが必要とされているのかも知れません。

 
教え(法)は数多くあります。どの教えからでも構いませんので、読経や写経をしたり法話を聞いたり一つずつ理解する努力をし、自身の日々の生活を省み、自分の考え、行いを正してみてはいかがでしょうか。

生き方としての仏教

会合でのお坊さんの笑い話がおもしろかった。こういう話である。お坊さんとお医者さんと葬儀屋さん三人が揃って写真に写ることになった。お坊さんが一番右端に立つと、お医者さんが「一番右端は私です。あなたは次で、最後に葬儀屋さんの順でしょう」「へ~」と思ったお坊さんが「何故ですか」と尋ねると、
「だって三人の中で、誰しも一番最初に世話になるのは医者の私です。その次が葬式をされるあなた。次に葬儀屋さんでしょう」
 
なるほど、そういうことかと思ったお坊さんが、「実はね先生、坊さんの本当の仕事は葬式ではないのですよ。人間として“いかに生きるか”という生き方を説くことです。お釈迦さんは人間としての理想の生き方を説かれた方ですからね。ですから順番など関係ありません。それよりも順番にこだわる生き方は人生をつまらなくすることに気付くことがもっと大事ですよ」
 
それを聞いたお医者さんは「なるほど」と合点をしたという話です。
 
 仏教は、お釈迦さまの説かれた教えです。その教えは分かり易くいうと、自分のこころを貧しくし、苦しめる自己中心的なこころ(エゴ)のとらわれから解放されて、人間本来の、感謝に満ち、支え合って生きる、こころ豊かな生き方を説いたものです。しかし、お釈迦さまの教えに導かれないで生活していますと、つい自己中心的なエゴに振り回されてしまいます。世界中で一番可愛いのは自分になります。そして、“自分の思う通りにしたい”という身勝手な欲望が無意識に湧き起ってきます。このこころは誰にでもある自己保存本能ですが、このこころに振り回されていますと、“思う通りにならない”のが世の常ですので、ストレスや苦しみは否応なく増すばかりです。私たち人間の苦しみは、自己中心的なこころ(エゴ)に対する執着が根本です。
 
 本来、あらゆるものは支え、支えられ、生かされて存在しています。自分だけという独立した自我はどこにも存在しません。すべてがあらゆる縁によって生かされている存在です。これが仏教の説く真理です。ですから、この真理に基づいて、自らも社会の為、人の為、一隅を照らし、感謝をし、支え合う生き方をすれば、人間本来のこころ豊かな、充実した人生を歩むことができるのです。仏教とは本来このような「仏道を歩む」生き方といえます。
 

九州西教区布教師会会長:鍋島隆啓

布施の心

中川透冴

仏教の教えの中に「布施」という教えがあります。古来インドで修行僧への法衣の一部として「この布をお使い下さい」と一切れの布を施していたことに由来するものです。当時は一切れの布が貴重なものでもありました。今では寺院へのお礼としての意味合いが主流になりつつありますが、この布施の中にも眼施(優しい眼差し)・言辞施(思いやりの言葉)・和顔施(柔和な表情)など実は深い教義が含まれております。
人の心の中の喜び(安楽)というものは、物品に満たされることよりも人からいただく真心ではないでしょうか?赤ちゃんがお母さんから受ける愛情を一番の喜びとするように思いやり以上の施しはないように思います。今、そこで出来る思いやりの心を見返りを求めず施す事により、同時に私たちの心も清浄な心へと繋がっていくものでしょう。仏教の大事な教えは因縁(ご縁)でございます。わるい出来事さえも心の運びようによって善へも転じることもあります。あなたに出来る心の布施により、ある時は太陽の光のように、ある時は潤いの雨の様に、その心の温かさが輪となって喜びの笑顔の花を咲かせるものと信じています。また、いただいている多くの布施(ご縁)への感謝を忘れず歩みたいものです。

阿弥陀二十五菩薩来迎図について

阿弥陀様を中心にして、多勢の菩薩様たちが雲に乗って降りてくる有様を描いた絵であります。これを「聖(しょう)衆(じゅう)来迎図(らいごうず)」または「来迎図」とも申します。
 
絵の右下に人が臥していますが、これは臨終の時に阿弥陀様が多勢の菩薩様を引き連れて迎えに来て下さる有様を描いたものです。
彼の国に生ずる時、この人、精神勇猛なるが故に、阿弥陀如来は観音(かんのん)、勢至(せいし)、無数の化佛(けぶつ)、百千の比丘声聞大衆、無量の諸天、七宝の宮殿と共に行者の前に至る。
 
 阿弥陀佛は大光明を放って行者の身を照らし、諸々の菩薩と共に手を授けて迎接し、観音、勢至は無数の菩薩と共に行者を讃歎し、その心を勧進す、聖衆来迎図、には、阿弥陀(あみだ)三尊(さんぞん)来迎図(らいごうず)、弥陀(みだ)一尊(いっそん)来迎図(らいごうず)、山越(やまごえ)来迎図(らいごうず)、還(かん)来迎図(らいごうず)等種々ありますが来迎図の多くは、阿弥陀佛の他二十五菩薩が共に白雲に乗って迎えに来る図の様です。二十五菩薩を記しておこう。
 
1、観世音(かんぜおん)菩薩 2、大勢至(だいせいし)菩薩 
3、薬王(やくおう)菩薩 4、薬上(やくしょう)菩薩 
5、普賢(ふげん)菩薩 6、法自在王(ほうじざいおう)菩薩 
7、獅子吼(ししく)菩薩 8、陀羅尼(だらに)菩薩 
9、虚空蔵(こくぞう)菩薩 10、徳蔵(とくぞう)菩薩 
11、宝蔵(ほうぞう)菩薩 12、金蔵(こんぞう)菩薩 
13、金剛蔵(こんごうぞう)菩薩 
14、光明王(こうみょうおう)菩薩 
15、山海慧(さんかいえ)菩薩
16、華厳王(けごんおう)菩薩 
17、衆宝王(しゅうほうおう)菩薩
18、月光王(がっこうおう)菩薩 
19、日照王(にっしょうおう)菩薩
20、三昧王(さんまいおう)菩薩 
21、定自在王(じょうじざいおう)菩薩 
22、大自在王(だいじざいおう)菩薩 
23、白象王(びゃくぞうおう)菩薩 
24、大威徳王(だいいとくおう)菩薩 
25、無辺身(むへんしん)菩薩
 
二十五菩薩の来迎図は、藤原時代末に盛んに描かれたのですが、当時の人にとってこの世は末法時代に入り終末の様相を呈し、この世への厭世観から来世の極楽浄土に対して強い憧れが生まれております。
 
(文・荻原観順)

入峰行

先日、ご縁があり入峰行を厳修するために石鎚山に登ってまいりました。石鎚山は愛媛県と高知県の境目にあり、標高が1982メートルもある山岳信仰の山として有名で、近畿より西では最高峰な日本七霊山、日本百名山、日本百景のひとつです。
 
私は弥山(石鎚山は天狗岳と弥山と南尖峰の一連の総体山のことを言います)を登り、山頂にある石鎚神社を目指しました。
 
私はこのお話をいただいてから、登山の準備(体のトレーニングや心の持ち方等)を全然して行きませんでした。
 
きっとどこかで軽く見ていたのでしょう。
 
どうにかなると。
 
実際はかなり厳しく、また服装や装備も登山用の物ではなく地下足袋、装束、法螺貝等々慣れないものばかりでした。
 
当日は台風が接近しているせいか天候が悪く、視界も先が見えず、雨が降り風も強い。そんな中をただひたすらに、見えない頂上を目指して登って行きました。
 
何の準備もして行きませんでしたから当然苦しくなって行きます。自分の体たらくを呪い悔やみます。何でもっと前から準備して行かなかったのかと。
 
自分が苦しくなった時に「魔が差す」と言うのは本当ですね。苦しくなった最初は自分を呪い、責めていましたが、だんだんと、周りの人を責める様になりました(実際に責めるのではなく、そう思うと言う事です)あいつが歩くのが遅いからとか、この山に地下足袋は合わないだろうとか。天気が悪いから駄目なんだよとか。。。
 
道中は全員で「ナマイダー!」「ナマイダー!」と交互にかけ声を出しながら登ります。部活で走り込んでいた時に「1!2!」「1!2!」というのと同じ感じです。誰が言うとか決まっておらず、自然とそんなかけ声が生まれてくるのです。またすれ違う人に「お登りさ〜ん」「お下りさ〜ん」と声を掛け合います。
 
私は苦しさのあまり、頂上の方を見てばかりいて、かけ声を一切出してませんでした。苦しいから仕方ないんだよ!と勝手に判断して。しかし頂上は一向に見える気配もありません。
 
途中で「お前!ちゃんと声出せや!」と叱られました。こんな苦しい時に良く言うよ。と舌打ちをしながらもヤケクソで「ナマイダー!」と叫びながら登って行きました。自慢ですが声だけは大きいのです。
 
すると自然と私のヤケクソの「ナマイダー!」が中心となって声が揃って来るではありませんか。山道は長蛇の列になるのでかけ声が段々とバラバラになってきます。道のカーブで列が縮んだり、声が大きかったりするとかけ声がそろってくるのです。「ナマイダー!」「ナマイダー!」
 
「ナマイダー!」「ナマイダー!」
 
いつしかそのかけ声に夢中になっていました。
 
すると、気付けば山頂の石鎚神社に着いていました。
 
私は、あんだけ苦しかったのに不思議だな〜。と感じるとともに、「ちゃんと声出しなさい!」と言って下さった方に感謝しました。
 
これはまさに人生そのものだなぁ。と
 
先の見えない人生を悔やみ不安になるよりも、今自分に出来る事、やるべき事をしなさい。一歩一歩。コツコツと。そうすれば自然と頂上に着くよ。と石鎚山に教えていただいた様な気がします。

歩く

うちには7ヶ月になる息子ともうすぐ4歳になる娘がいます。娘を育てているときは初めての事ばかりで冷静に観る事がなかなか出来ませんでしたが、2人目になるとだいぶ落ち着いて向き合う事が出来る様になりました。

 

そんな息子がハイハイをする様になりました。掴まり立ちも出来る様になってきました。2人目の成長は早いものです。
 
その息子のハイハイは確実に1歩1歩まるで亀さんのようにゆっくり進んできます。途中で休憩を入れながら。
 
歩くという字は、止まるに少しずつと書きますね。
 
まさに小さな赤ちゃんがヨチヨチ歩き始めた段階を示してる字といえます。
 
息子のハイハイ姿を見て考えさせられました。
 
 
“止まりながら少しずつ歩む”
 
 
私たち人間が生きていく中で大事にしなければならない姿勢ではないでしょうか。時には立ち止まり、時には転ぶ。何事も焦らず少しずつ少しずつがいいのですね。
 
走ってると、自分の周囲にある身近な景色をゆっくりと見渡すことが出来ないのですね。
 
 
他が見れなくなることは、他を認められない受け入れられないということになります。
 
 
皆それぞれに、自分の“歩み方”を互いに尊重しながら、大事にしていたいものですね。

四恩

私たちは、朝起きて、ご飯食べて、学校行ったり仕事したり家事したり、お酒飲んだりテレビ観たり風呂入って夜寝るまで、何気なく過ごしています。中には毎食後に藥を飲んだり病院行ったりする方もいる事と思いますが、それでも一日終わる時間はあっという間ですね。
 
苦しいときは一日がとても長く感じますが、五体満足で楽しく過ごしていればいる程、時は早く流れていくと感じるものです。
 
社会に出て生活を自立して行く事ができると自分一人の力で生きていけるんだ。と錯覚してしまうものです。
 
健康であればある程、楽しい時があればある程、つい忘れてしまうものがあります。
 
それは感謝の心。です。
 
それを四恩と言います。
 
まず第一に父母の恩。私たちを産んでくれて、育ててくれた恩。年を重ねてもいつまでも親は子供の事が心配なものです。そういった両親や親族への感謝の心。
 
第二に衆生への恩。衆生とは生きとし生けるもの全ての生命の事を指します。私たちが生きていく為に必要な命や労働力、心、等です。
 
第三に国への恩。平和で豊かな国づくりをしてくれている指導者、その政治への感謝。
 
最後に三宝の恩。三宝とは仏・法・僧があり仏とはお釈迦様をはじめとする様々な仏様、お大師様の事。法とはそれらの仏様の尊き教え。僧とはそのみ教えを信じ崇拝し実践している者。
 
そういった全ての生きとし生けるものの中で私たちは幸せに過ごしています。何気ない毎日、退屈な毎日を送れるという事は、実はとても幸せな事なのです。こうやっている今でも、内戦で命の危険にさらされていたり、食糧難で飢えている方、重い病気で苦しんでいる方、仕事が無く困っている方等、何気ない日常生活を夢見て必死に生きている方もいるのです。
 
どうぞ、普通の毎日に感謝して日々生活を送っていただき、感謝の心を忘れないで精進していきたいものです。

行とは

私たちの気持ちにはおいしいものをお腹いっぱい食べたい気持ちと、体に負担にならない少食菜食をする両極の気持ちが食事の時に顔を出します。朝には「まだ布団に居て起きたくない」と「早起きするとすっきり気持ちがよい」とが葛藤します。服装では「こんな柄や形や素材は気に入らない」と「寒さや体を守ってくれる衣類があればいい」とがお店の前で心を揺らせます。他人は汗を流し智恵を絞って力の限り取り組んでいても、私は楽に過ごせるほうがいいのだと言い切ってしまう心があります。人と接する時は優しく配慮の行き届いた対応をしたい心と、どうみられたって構わないから我が勝手に過ごしたいとも思ってしまう。
 その両(ふた)つの心は片方が良くて、一方はなくさないといけないと自分に硬い枠組みをはめてしまうとバランスを欠いてしまい、「何故こんなことをしないといけないのか」と問い、長続きしないものになってしまうのかもしれません。また、自己中心のまま生きていると周りの存在が小さく意味のないものに見えてしまいます。
 人は用事が有って忙しい時にはのんびり過ごしたいと思う。暇があるときは退屈で仕方ない。人はないものを意識した時、ねだって余計に欲しくなる裏腹な心に襲われます。人のお世話をする時も「私が一方的に犠牲になっても構わない」と考えたり、「お世話してもらうばかりで何も返せるものがなく迷惑だけが残っていく」と考えると、肩をすぼめて寂しく生きていかざるを得ないのではないでしょうか。
 しかしあなたに対しみんなが求める姿なのですか? 自分が見えているだけのものしか与えていないのではなく、見えていない多くのものを人に与えながら生きているのです。私たちの心には人が見ていないから悪いことしても構わない、知らないからうそをついても構わない、人が評価しないから力を抜いてやればよい、などの心が顔を出す時もあります。でも一番傷つき、許しがたいのは自分なのです。
 そのようなあれこれの心に耐えながら、前進するところに行があるのです。両つの心を越えて生きようとするのが行なのです。今持っている価値観より、もう一段高い価値観へと近づこうと力を尽くすのは喜びにつながります。
 伝教大師は「発し難くして、忘れ易きは善の心なり」と説かれ、善の心を実践しようとする時「忘己利他」の心を持てと説かれています。人と共に取り組む共同性が大切になります。人と共に目的に向かう、人と共に喜び合う、人と共に難しさを工夫する、人と共に力を尽くす。これらに叶うのが善の心です。善い行いが出来た後味は、すがすがしく我が心を満たしてくれるでしょう。此れを重ねながら生きていくのが生活にある行(ぎょう)の姿ではないでしょうか。

(文・上阪法山)
天台宗仏教法話集より

お弁当

私が幼稚園の頃、お昼にお弁当の日がありました。母は私が大好きなカレーをタッパーにご飯と一緒に満杯詰め込んで風呂敷に包んで持たせてくれました。私は嬉しくて嬉しくて仕方ありませんでした。
何故かというと、私はカレーが大好きで、朝昼晩と三日三晩食べても構わないくらいだったのです。
お昼の時間になり先生が私のお弁当を見てとても驚きました。
あら!あなたのお弁当はカレーなの!冷たくて美味しくないでしょう?お母さん忙しかったのかな?
私は先生がなんでそんなに驚いているのか、その時良く分かりませんでした。
大人になった今ではとても良く分かります。カレーをお弁当にするのはとても簡単です。ご飯入れてカレーかけて蓋をするだけ。なんですから。それに熱々ご飯に熱々のカレーをかけて食べる方が断然美味しいのですから。手抜きしたと考えるのが普通ですよね。
 
ですが子供のころの私は冷たかろうと熱かろうとカレーが良かったのです。大好きなカレーを入れてくれた事がとても嬉しかったのです。朝お弁当を作っている母にどうしてもカレーが良いと駄々をこね、泣きながらお願いしたカレーなのです。
先生にはきっとそのやり取りが分からなかったのでしょうね。
 
以前、TVか雑誌に「コンビニ弁当とおふくろさんの手作りの弁当とどちらがいいか」というアンケートをやっていました。なんと、コンビニ派が半数を超えていました。
何故かというと、今のコンビニのお弁当は安くて美味しいし、自分の好きな時に自分の好きなものを自分の好きなだけ手軽に食べることができ、嫌いなものは残して捨てても誰も文句を言わない。からだそうです。確かにコンビニの弁当の方は手軽で、安くて旨い。しかし、防腐剤のタップリ入ったお弁当では“優しさ”までは込められないのではないでしょうか。
 
お弁当を残したら母親に怒られたり何で残したのか聞かれたりしますね。そういう事に気を遣うし面倒くさいのでしょう。ですが、母親はその食べ終えたお弁当箱を見て体調や精神状態を見極めているのです。
味や温度が問題ではないのです。そのお弁当箱の中にはたくさんの“優しさ”が含まれているのです。
その優しい心に感謝して全部いただきましょう。
 
そして心から感謝して言いましょう。ごちそうさま。と。

節分

地域によって様々ですが、焼いたイワシの頭をヒイラギに刺し玄関に飾り、年の数だけ豆を食べ、「鬼は外~福は内~」と豆をまく・・・
以前は関西だけだった「巻き寿司のまるかぶり」の風習も、昨今の寿司業界の努力で、どうやら、恵方巻きという名前で全国ネットになりつつあるようです。
この「巻き寿司のまるかぶり」、その年の恵方(今年は東北東らしい)を向いて食べるのですが、1本丸ごと食べ終るまで、しゃべってはいけない事になってます。なかなか大変ですね。
ちなみに、恵方は、東北東=2014年・2019年、西南西=2015年・2020年、南南東=2016年・2021年、北北西=2017年・2022年、南南東=2018年・2023年・・・と繰り返し巡っていきます。
本来、節分とは、季節の変わり目を指す言葉で、春夏秋冬・年4回ありますが、今は「節分」と言えば春・・・立春の前の日の事を言うようになりました。
旧暦では元日~7日頃、新暦では2月3日か4日になります。
もともとは、宮中で大晦日に厄を祓って新年を迎える儀式を節分と言いました。
「季節の変わり目には、鬼に象徴される「悪」や「厄」が生活の中に入りやすい」という考えは古来からあって、これを追いはらうのが「鬼やらい」つまり「豆まき」です。
豆は鬼の眼を打ち、イワシの頭はその臭いで鬼を寄せ付けないと考えられました。
奈良時代、文武天皇の慶雲三年(706年)に諸国に疫病が流行したので、鬼儺(おにやらい)の儀式を行ったのが起源とされていますが、「豆まき」としては、平安時代の宇多天皇の頃(887年~897年)に、「鞍馬山の奥の僧正ヶ谷に住んでいた鬼が、都に乱入しようとしたので、豆を投げ鬼の眼を潰して回避した」と言われています。
やがて室町時代には、現在のように「鬼は外~福は内~」と唱えながら豆をまく・・・という形になります。
江戸中期頃には社寺の行事として行われ、浅草観音では、朝早くから豆をまく事のできる「整理券」を求めて参拝客が殺到し、「人の手、武蔵野の尾花(ススキ)のごとし」と称された程でした。
また、この頃からは、社寺や公的な場所だけではなく、広く民間&個人で「豆まき」が行われるようになります。
明治維新になって、少し低迷しましたが、明治時代の後期には再び復活し、現在のように盛んになるのです。
ところで、節分の日に全国一斉に豆をまかれて追っ払われてしまう「鬼」ですが・・・悪の権化のように思われる鬼も、実のところ仏教一色になる前の古代の日本では、それほど悪いキャラでは無かったのです。
もともと「オニ」という言葉は「オン(陰)」という言葉が変化した物だと考えられていて、形の見えない霊のような存在を「鬼(オニ)」と呼んでいました。
日本古来の山岳信仰では、人が死ぬとその霊が山に留まり、山の神様となる・・・どちらかと言うと、自分たちを守ってくれるご先祖の霊が鬼だったのです。
しかし、ご先祖様の霊をないがしろにすると、それは逆に怨霊となって災いをもたらす。と言われています。そんな両面を持っていた鬼が、仏教の伝来とともに、地獄の鬼のイメージと重なり、恐ろしい部分だけが印象付けられ、「悪=鬼」という構図になったのではないか?という事です。
また鬼は、正月に訪れる「年神」の一種ではないか?とも言われています。
「年神」というのは、お正月に幸福をもたらす為にやって来る神様で、その年の恵方(年神様がやって来る方角)へ向けて、神棚やしめ縄、お神酒や鏡餅などを飾ってお迎えするのです。もちろん門松もこの飾りの一つです。
小正月に、これらの飾りを燃やす「とんど焼き」(ドンド焼き、左義長と言ったりもします)のような火の祭りが行われるのは、これらの神様が帰って行くのを見送る・・・という意味が込められているという説もあります。
「鬼=神様」という事に違和感を感じるかたは、有名な秋田の「なまはげ」を思い出してみて下さい。
「なまはげ」は、鬼のような風貌に包丁などを持っていかにも怖そうですが、訪問された一家の主は、正装してお酒をサービスして出迎え、明らかに訪問を喜んでいます。
鬼も「なまはげ」も、一家に幸福をもたらしてくれる神様なのです。
また「怠けた心を剥ぐ」と言う意味もあるようです。
そんな中で、昔はこのお正月に神様を迎える行事は、一年の厄を祓う節分行事とワンセットになって、一緒に行われていたのです。
ところが、いつの程からか、これらの行事が別々に行われるようになり、厄祓いを担当させられちゃったのが、鬼・・・という事です。
ご先祖様にしても、年神様にしても、どちらにしても、昔の鬼は、今のような悪のイメージは無かったようです。
今でも、鬼は一年の厄を祓ってくれる良い存在・・・豆は退治するためではなく、お供え物として捧げる・・・という考えかたが、残っている場所もあるようです。

精進料理

みなさんは精進料理と聞いて、どのようなものを思い浮かべられるでしょうか?
お肉やお魚、卵などの動物性の材料を用いず、野菜類で調理した料理を連想される事と想います。お野菜と申しましても、ネギやニンニクといったにおいの強いものは用いないのが通例でございます。
さて、この精進料理ですがこれだけで真の精進と言えるでしょうか?たとえ野菜と言えども「命」を我々はいただいております。この「命」は一つではないと思います。
それはまず、種から自然の恩恵を受けて育った野菜の物理的な命、もう一つは野菜を一生懸命育てた農家の方の命(労力)そしてそれを台所で調理してくれた人(家族)の愛情など、物理的な命に加えて労力や手間という命がそこに詰まっているのです。
我々が口にする「食」というものは、物理的な命と同時に時間をかけ生産〜調理してくれた人々など、目に見えないたくさんのご縁という命の結晶でございます。
目の前の食に対して五感で感じる味わいと同時に自然の恩恵や人々の愛情を心で噛み味わう事で心身共に豊かに満たされるのではないでしょうか?
食後の感謝はもちろん、色々な「命」をいただいたのだから今日一日を仕事や勉学などの自分の役割に精一杯励む事。また食に対する報恩の気持ちを持つ事で、仏教で説く六波羅蜜の「精進」の姿により近づけるものだと思います。

二度とない人生だから〜坂村真民〜

 
二度とない人生だから
一輪の花にも
無限の愛を
そそいでゆこう
一羽の鳥の声にも
無心の耳を
かたむけてゆこう
 
二度とない人生だから
一匹のこおろぎでも
ふみころさないように
こころしてゆこう
どんなにか
よろこぶことだろう
 
二度とない人生だから
一ぺんでも多く
便りをしよう
返事は必ず
書くことにしよう
 
二度とない人生だから
まず一番身近な者たちに
できるだけのことをしよう
貧しいけれど
こころ豊かに接してゆこう
 
二度とない人生だから
つゆくさのつゆにも
めぐりあいのふしぎを思い
足をとどめてみつめてゆこう
 
二度とない人生だから
のぼる日 しずむ日
まるい月 かけてゆく月
四季それぞれの
星々の光にふれて
わがこころを
あらいきよめてゆこう
 
二度とない人生だから
戦争のない世の
実現に努力し
そういう詩を
一遍でも多く
作ってゆこう
わたしが死んだら
あとをついでくれる
若い人たちのために
この大願を
書きつづけてゆこう
 

過ぎ去った時は戻りません。あの頃を振り返ってもあの頃にはなれません。それが私たち人間です。前を向いて、未来を想い、今、自分が出来る事、するべき事をよく見つめ、日々精進していただきたいものです。仏様は時間を皆さんに平等に下さっているのですから。

ローソクの灯

私たちは御仏壇にお参りする時、お寺にお参りする時、納骨堂やお墓にお参りする時、まず最初にする事は、ローソクにマッチやライターで火を点す事ですね。
それはお線香に火をつけるという目的の為につけていることでしょう。宗派を問わずほとんどの方がそうされますね。ですが、このローソクの火に仏教の教えがあるのをご存知でしょうか?
 
まずローソクに火をつける意味はお堂や仏壇、もしくはお経を読むときの明かり、線香に火をつける等の目的があります。日本の神道でも「かがり火」が欠かせなかったり、聖書でも「愛」や「命」を自ら燃えて小さくなっていくろうそくの炎に例えて表現したりします。
 
ローソクには「明かり(光)」と「炎(熱)」の2つの意味があり、それぞれに仏教的な意味があります。(宗派によって少し違うかも知れません)
 
まず「明かり(光)」ですが、「光明とは智慧のかたちなり」と言い、智慧とは仏様の光明を表しているのです。すなわち「物事を正しくとらえ、真理を見極める力」なのです。
 
私たち凡夫は煩悩という闇に覆われ自分中心の偏見から本当の正しい事が見えない状態ですが、仏様の智慧の力によって暗闇の中でポツンとローソクが灯り正しい道を示して下さるのです。
 
また、亡くなった方が極楽浄土へ旅立つ時、真っ暗闇の中をどちらへ進んでよいかも解らず、足下も何も見えない中、進んでいかなければなりません。
 
そこにポツンと足下に明かりが灯り、一筋の道となって極楽浄土まで続いていくのです。と言われています。
 
「炎(熱)」は触れない程熱く、その熱で蝋を溶かして燃えていきます。まさに私たちの煩悩で固まった心を溶かし、解きほぐしていくのです。炎の色もあたたかいオレンジ色ですね。日々の生活で疲れきった、冷えきった心を暖めてくれるのです。この暖かさこそが仏様の「慈悲」で「仏が衆生を哀れみ。苦を抜き、楽を与える心」なのです。
 
そしてローソクには限りがあり、自分の命をすり減らしながら燃えています。線香も同じですね。その長さが終わると炎も消えてしまいます。まさに人生の儚さを表しているのです。「限りある命を燃え尽きるまで、精一杯熱く燃やして生きて下さい」という仏様の願いなのかも知れません。または自分の命を燃やして回りを明るくする。という行為が「布施」であると考えられています。
 
と言う様に、色々な意味があり、普段何気なくつけている礼拝には欠かせないローソクの明かりですが、意味があるからといってつけっぱなしにはせずに、火の取り扱いには十分注意して、礼拝が終わったら必ず火を消しましょう。

お盆〜坂村真民〜

 
亡くなった人たちに会える日を
作って下さった
釈迦無偽尊に
心からお礼を申し上げよう
そして亡くなった人たちが
慶んできてくださる
楽しいお盆にしよう
せっかく来てくださった方々を
悲しませたり
落胆させたり
もう来ないことにしようなど
思わせたりしない
心あたたかいお盆にしよう
迎え火のうれしさ
送り火のさびしさ
そうした人間本然の心にかえって
守られて生きる
ありがたさを知ろう

お盆ですね。ご先祖様たちが皆さんのお家に帰って来ます。坂村真民さんが書かれた詩にもありますように、心温まるお盆にしていただきたいものです。毎日忙しく過ごされている方達もたまには田舎に帰省し、のんびりと羽根を伸ばしご先祖様に感謝して心の充電、ストレスの放電をしてみてはいかがでしょうか。

「いのちをいただく」

我いま幸いに 仏祖の加護と衆生の恩恵によって この清き食を受くつつしんで 食の来由をたずねて 味の濃淡を問わず その功徳を念じて 品の多少を選ばじ いただきます

「いのちをいただく」

坂本さんは、食肉加工センターに勤めています。牛を殺して、お肉にする仕事です。
坂本さんはこの仕事がずっといやでした。牛を殺す人がいなければ、牛の肉はだれも食べられません。だから、大切な仕事だということは分かっています。
でも、殺される牛と目が合うたびに、仕事がいやになるのです。
「いつかやめよう、いつかやめよう」と思いながら仕事をしていました。
坂本さんの子どもは、小学3年生です。しのぶ君という男の子です。
ある日、小学校から授業参観のお知らせがありました。
これまでは、しのぶ君のお母さんが行っていたのですが、その日は用事があってどうしても行けませんでした。そこで、坂本さんが授業参観に行くことになりました。
いよいよ、参観日がやってきました。「しのぶは、ちゃんと手を挙げて発表できるやろうか?」坂本さんは、期待と少しの心配を抱きながら、小学校の門をくぐりました。
授業参観は、社会科の「いろんな仕事」という授業でした。先生が子どもたち一人一人に「お父さん、お母さんの仕事を知っていますか?」「どんな仕事ですか?」と尋ねていました。しのぶ君の番になりました。坂本さんはしのぶ君に、自分の仕事についてあまり話したことがありませんでした。何と答えるのだろうと不安に思っていると、しのぶ君は、小さい声で言いました。「肉屋です。普通の肉屋です」
坂本さんは「そうかぁ」とつぶやきました。坂本さんが家で新聞を読んでいると、しのぶ君が帰ってきました。「お父さんが仕事ばせんと、みんなが肉ば食べれんとやね」
何で急にそんなことを言い出すのだろうと坂本さんが不思議に思って聞き返すと、しのぶ君は学校の帰り際に、担任の先生に呼び止められてこう言われたというのです。
「坂本、何でお父さんの仕事ば普通の肉屋て言うたとや?」「ばってん、カッコわるかもん。一回、見たことがあるばってん、血のいっぱいついてからカッコわるかもん…」
「坂本、おまえのお父さんが仕事ばせんと、先生も、坂本も、校長先生も、会社の社長さんも肉ば食べれんとぞ。すごか仕事ぞ」
しのぶ君はそこまで一気にしゃべり、最後に、「お父さんの仕事はすごかとやね!」と言いました。その言葉を聞いて、坂本さんはもう少し仕事を続けようかなと思いました。
ある日、一日の仕事を終えた坂本さんが事務所で休んでいると、一台のトラックが食肉加工センターの門をくぐってきました。
荷台には、明日、殺される予定の牛が積まれていました。坂本さんが「明日の牛ばいねぇ…」と思って見ていると、助手席から十歳くらいの女の子が飛び降りてきました。
そして、そのままトラックの荷台に上がっていきました。坂本さんは「危なかねぇ…」と思って見ていましたが、しばらくたっても降りてこないので、心配になってトラックに近づいてみました。
すると、女の子が牛に話しかけている声が聞こえてきました。「みいちゃん、ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ…」
「みいちゃんが肉にならんとお正月が来んて、じいちゃんの言わすけん、みいちゃんば売らんとみんなが暮らせんけん。ごめんねぇ。みいちゃん、ごめんねぇ…」
そう言いながら、一生懸命に牛のお腹をさすっていました。
坂本さんは「見なきゃよかった」と思いました。
トラックの運転席から女の子のおじいちゃんが降りてきて、坂本さんに頭を下げました。
「坂本さん、みいちゃんは、この子と一緒に育ちました。だけん、ずっとうちに置いとくつもりでした。ばってん、みいちゃんば売らんと、この子にお年玉も、クリスマスプレゼントも買ってやれんとです。明日は、どうぞ、よろしくお願いします」
坂本さんは、「この仕事はやめよう。もうできん」と思いました。そして思いついたのが、明日の仕事を休むことでした。
坂本さんは、家に帰り、みいちゃんと女の子のことをしのぶ君に話しました。「お父さんは、みいちゃんを殺すことはできんけん、明日は仕事を休もうと思っとる…」そう言うと、しのぶ君は「ふ~ん…」と言ってしばらく黙った後、テレビに目を移しました。
その夜、いつものように坂本さんは、しのぶ君と一緒にお風呂に入りました。しのぶ君は坂本さんの背中を流しながら言いました。「お父さん、やっぱりお父さんがしてやった方がよかよ。心の無か人がしたら、牛が苦しむけん。お父さんがしてやんなっせ」坂本さんは黙って聞いていましたが、それでも決心は変わりませんでした。
朝、坂本さんは、しのぶ君が小学校に出かけるのを待っていました。「行ってくるけん!」元気な声と扉を開ける音がしました。
その直後、玄関がまた開いて「お父さん、今日は行かなんよ!わかった?」としのぶ君が叫んでいます。坂本さんは思わず、「おう、わかった」と答えてしまいました。
その声を聞くとしのぶ君は「行ってきまーす!」と走って学校に向かいました。
「あ~あ、子どもと約束したけん、行かなねぇ」とお母さん。
坂本さんは、渋い顔をしながら、仕事へと出かけました。会社に着いても気が重くてしかたがありませんでした。
少し早く着いたのでみいちゃんをそっと見に行きました。牛舎に入ると、みいちゃんは、他の牛がするように角を下げて、坂本さんを威嚇するようなポーズをとりました。
坂本さんは迷いましたが、そっと手を出すと、最初は威嚇していたみいちゃんも、しだいに坂本さんの手をくんくんと嗅ぐようになりました。
坂本さんが、「みいちゃん、ごめんよう。みいちゃんが肉にならんと、みんなが困るけん。ごめんよう…」と言うと、みいちゃんは、坂本さんに首をこすり付けてきました。それから、坂本さんは、女の子がしていたようにお腹をさすりながら、「みいちゃん、じっとしとけよ。動いたら急所をはずすけん、そしたら余計苦しかけん、じっとしとけよ。じっとしとけよ」と言い聞かせました。
牛を殺し解体する、その時が来ました。坂本さんが、「じっとしとけよ、みいちゃんじっとしとけよ」と言うと、みいちゃんは、ちょっとも動きませんでした。
その時、みいちゃんの大きな目から涙がこぼれ落ちてきました。
坂本さんは、牛が泣くのを初めて見ました。そして、坂本さんが、ピストルのような道具を頭に当てると、みいちゃんは崩れるように倒れ、少しも動くことはありませんでした。
普通は、牛が何かを察して頭を振るので、急所から少しずれることがよくあり、倒れた後に大暴れするそうです。
次の日、おじいちゃんが食肉加工センターにやって来て、坂本さんにしみじみとこう言いました。「坂本さんありがとうございました。昨日、あの肉は少しもらって帰って、みんなで食べました。孫は泣いて食べませんでしたが、『みいちゃんのおかげでみんなが暮らせるとぞ。食べてやれ。みいちゃんにありがとうと言うて食べてやらな、みいちゃんがかわいそうかろ?食べてやんなっせ。』って言うたら、孫は泣きながら、『みいちゃんいただきます。おいしかぁ、おいしかぁ。』て言うて食べました。ありがとうございました」
坂本さんは、もう少しこの仕事を続けようと思いました。

ある学校で、保護者の一人から、「給食費を払っているのに、『いただきます』と子どもに言わせるのはおかしい」というクレームがあった、との話を聞いたことがあります。「なんという常識のない保護者なんだ!」と片付けるのは簡単です。でも、もしもこの保護者が、この話を知っていたとしたら、どうだったでしょう?現在の食生活は、「命をいただく」というイメージからずいぶん遠くなってきています。そしてその結果、食べ物が粗末に扱われて、日本での一年間の食べ残し食品は、発展途上国での、何と3300万人分の年間食料に相当するといいます。私たちは奪われた命の意味も考えずに、毎日肉を食べています。動物は、みんな自分の食べ物を自分で獲って生きているのに、人間だけが、自分で直接手を汚すこともなく、坂本さんのような方々の思いも知らないまま、肉を食べています。動物だろうが植物だろうが、どんな生き物であっても、自分の命の限り精いっぱい生き続けたい、そう願って生きているんだと私は思います。命をいただくことに対しての「思い」。お肉を食べて「あ~、美味しい。ありがとう」お野菜を食べて「あ~、美味しい。ありがとう」そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?お肉を食べて「うぇ~、マズッ!」お野菜を食べて「うぇ~、マズッ!」そこに生まれる思いはどんな思いでしょう?食べ物をいただくとき、そこに尊い命があったことを忘れずに、その命を敬い、感謝の言葉をかけてあげられる人に育ちましょう。今日もまた、食べられることへの感謝の言葉、「ありがとうございます。感謝します。いただきます」食べているときの「美味しい!」という言葉。そして食べ終わった後の、「あ~、美味しかった。ありがとうございます。ご馳走さまでした」という「食べられたこと」への感謝の言葉をかけてあげましょう。もちろん、食べ残しをせずに。食べ物が、あなたの体を作ります。あなたの体に姿を変えて、あなたの中で生き続けます。そして、体の中からあなたを精いっぱい応援してくれています。あなたができる最高の恩返しは、たくさんの生き物たちから命のバトンを託されたあなたの命を、いっぱいに輝かせること。喜びに満ちた人生を過ごすこと。それが、あなたと共に生きているたくさんの命たちが、いちばん喜ぶことなんです。みんなの分まで、
命いっぱいに輝き一隅を照らしましょう!

本文:西日本新聞社「いのちをいただく」
著者 内田美智子 諸江和美
監修 佐藤剛史

十悪と十善戒

私たち人間の身(しん・体)口(く・言葉)意(い・心)の三業(さんごう)がもたらす中で最もしてはいけない十の悪があります。それを十悪と言います。
 
身の三悪(正行)
殺生(せっしょう) ‐ 無意味に他人や衆生の命を奪うこと
偸盗(ちゅうとう) ‐ 盗みのこと
邪淫(じゃいん) ‐ 不淫らな異性交遊のこと
口の四悪(正語)
妄語(もうご) ‐ 嘘をつくこと
綺語(きご) ‐ 奇麗事を言って誤魔化すこと
両舌(りょうぜつ) ‐ 二枚舌を使うこと
悪口(あっく) ‐ 他人の悪口を言うこと
意の三悪(正思)
貪欲(とんよく) ‐ 欲深いこと
瞋恚(しんに) ‐ すぐ怒ること
愚癡(ぐち) ‐ 恨んだり妬んだりすること

そして、その十悪を否定形にして戒律とし、 江戸時代後期の徳僧、慈雲尊者によって広く宣揚された十善戒と言うものがあります。
・身の善戒
◦不殺生(ふせっしょう) 故意に生き物を殺さない。
不偸盗(ふちゅうとう) 与えられていないものを自分のものとしない。
不邪淫(ふじゃいん) 不倫をしない。
・口の善戒

不妄語(ふもうご) 嘘をつかない。
不綺語(ふきご) 中身の無い言葉を話さない。
不両舌(ふりょうぜつ) 他人を仲違いさせるようなことを言わない。
不悪口(ふあっく) 乱暴な言葉を使わない。
・意の善戒

不慳貪(ふけんどん) 異常な欲を持たない。
不瞋恚(ふしんに) 異常な怒りを持たない。
不邪見(ふじゃけん) (善悪業報、輪廻等を否定する)誤った見解を持たない。

と、この中でも口に関する戒が4つあります。諺にもありますが、口は禍いの元なんですね。
私達の日々の生活には言葉を原因とする事件やトラブルがいかに多いか改めて思い知らされます。
同時にこれをしないようにしよう、という心を持続することの困難さも身にしみて感じます。
何かを名づけてしまうことは同時にレッテルを貼ってしまうことでもあり、それによって言葉が実体を離れて一人歩きを始めてしまいます。
それとは反対に、手を合わせ心を鎮め一心に唱える念仏や真言は私たちの心の安楽をもたらし、自分自身を見つめ直す事が出来ますね。
十善戒を実践しようという心掛けを持続することで私たちの日常の心や言葉もお経のように人々に安心をもたらして行く事が出来るはずです。十善戒を心のどこかに記憶していただき、日々の生活に役立てていただきたいものです。

そのうち

そのうち お金がたまったら
そのうち 家でも建てたら
そのうち 子供が手を放れたら
そのうち 仕事が落ちついたら
そのうち 時間のゆとりができたら
 
そのうち・・・‥
そのうち・・・‥
そのうち・・・‥と、
できない理由を
くりかしているうちに
結局は何もやらなかった
空しい人生の幕がおりて
頭の上に 淋しい墓標が立つ
 
そのうちそのうち
日が暮れる
いまきたこの道
かえれない

相田みつを詩集「いきていれば良かった」より

私は、毎日しなければならない事に追われて、やりたい事を「そのうち」にして過ごしています。
 
元気なうちは、そのうちいつか出来るだろう。とか、その気になればいつでも出来るさ。なんて思って放ったらかしにしてしまいがちです。
 
ですが、いざ自分が病気になったり年をとったりするとなかなか出来なくなるものです。
 
「当たり前」と思っている毎日の生活、元気な家族、五体の満足もいつかは変化してしまうのです。この事こそまさに「諸法無常」ですね。
 
「あの頃は良かった」なんて思わないように是非元気があるうちに皆様もやりたい事にチャレンジしてみて下さい。
 
いつもある元気や命は永遠に続く訳ではありませんから。

自分の番

父と母で 二人
父と母の両親で 四人
そのまた両親で 八人
こうしてかぞえてゆくと
十代前で 千二十四人
二十代前では・・・・・?
なんと百万人を越すんです
過去無量の
いのちのバトンを受けついで
いま ここに
自分の番を生きている
それが
あなたの いのちです
それが わたしの
いのち です

限りある人間の生命は、「誕生~成長~成熟~老熟~衰弱・消滅」しますが、今ある自分の生命はとてつもない人類の営みの中、地球の恵の中で育まれてきています。
 
相田みつおさん流にいえばまさに「いのちのバトン」ですね。一代前では2人、二代前では4人、十代前では1,024人、二十代前では104万8576人、三十代前では10億737万1824人が関与している事になり、ものすごい数の人たちが私たちを育んで下さっている訳ですからそうそう粗末にはできないですね。
 
この世に生を受けて、人間社会で今を生きている。いや、生かされているのです。人生は80年と言いますね。人生を時間計算するときっとそれは膨大な数ですが、確実に刻々と死に向かって私たちは生きています。このいただいた命、生かされている命を私達は自分のためばかりではなく、世のため、人の為に何が出来るのでしょうか?
 
今までたくさんの恩恵を受けてきた事を振り返り、是非私たちを育んでくれた、生かして下さっている母なる地球の為に何か恩返しをしていただければ。と思います。

世界に一つだけの花

花屋の店先に並んだ いろんな花をみていた
ひとそれぞれ好みはあるけど どれもみんなきれいだね
この中で誰が一番だなんて 争う事もしないで 
バケツの中誇らしげに しゃんと胸を張っている
 
それなのに僕ら人間は どうしてこうも比べたがる?
一人一人違うのにその中で 一番になりたがる?
 
そうさ 僕らは 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
 
(中略)
 
名前も知らなかったけれど あの日僕に笑顔をくれた
誰も気づかないような場所で 咲いていた花のように
 
そうさ 僕らも 世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ その花を咲かせることだけに 一生懸命になればいい
 
小さい花や大きな花 一つとして同じものはないから
No.1にならなくてもいい もともと特別な Only one
 
 
花は一瞬にして咲かない。
大木も一瞬にして大きくはならない。
一日一夜の積み重ねの上にその栄光を示すのである。

坂村真民

 
生も一度きり、死も一度きり、一度きりの人生だから、
一年草のように、独自の花を咲かせよう。

坂村真民

人は皆幸せになりたいと願い、毎日を過ごしています。幸せは人によって違いますが、誰しもが豊かになりたいと願っています。そして不幸せと感じるときこそ、他の人と比べている時がほとんどで、「あの人よりも豊かではない」とか「あの人羨ましいな」と感じ「なぜ私だけ報われないのか?」と思ったときから不幸せが始まるのです。
比べると勝ち負けが、優劣が生じ不幸せが生まれます。まさにこの歌と同じですね。まずは自分のするべき事、したい事を、足下からしっかりと始めましょう。一生懸命していれば、回りと比べている時間なんかないはずです。綺麗な花も皆さんに見てもらう為に咲いている訳ではないのです。一生懸命生きようと、実や種を残そうと必死に頑張っているから綺麗なのです。今月は節分ですね。どうぞ、この節目を分ける時に是非皆さんの世界に一つだけの花を咲かせて下さい。

遠く遠く

 
遠く遠く離れていても
僕の事がわかるように
力いっぱい輝ける日を
この街で迎えたい
 
中略
 
遠く遠く離れた街で
元気に暮らせているんだ
大事なのは
「変わってくこと」
「変わらずにいること」
 
中略
 
遠く遠く離れていても
僕のことがわかるように
力いっぱい輝ける日を
この街で迎えたい
 
僕の夢をかなえる場所は
この街と決めたから

 
歌手の槇原敬之さんが遠い友人に宛てた手紙ですが、もっと他の方にも通じるのではないでしょうか?例えば亡くなってしまった父や母、友人。。。遠くで見守っていてくれる方々に対しても「力一杯輝ける日」を私たちが勤め、遠くの方々に自分の存在を知らせる努力が大事なのです。
大事なのは「変わってくこと」「変わらずにいること」。変わってはならないのは、今まで私たちの人生の中で関わってきたたくさんの方々や、命、そして私たちを育んでくれた親や祖先、地球の恵に感謝しなければならないこと。変わっていくことは私たちの成長や、目標への一歩前進ではないでしょうか?
それこそが「輝ける日」であり、我ら宗祖根本伝教大師が述べられた「一隅を照らす」ことでなのです。
新年を迎え、是非私たちも「輝ける人」になれるよう、勤めたいものです。

大変

さて今年も後1ヶ月あまりとなりました。1年早いですね。12月は師走といい、僧侶も走り回る程の忙しさなのでしょう。そんなとき「あ〜忙しくて大変だ。大変だ。」と言いますね。
さて、この大変という文字ですが、意味は
大きな異変。大事件。 「国家の-」
②大きな危険や損害をもたらしそうで捨てておけないこと。事が重大であること。また,そのさま。 「 -な事件」
苦労のはなはだしいこと。対処するのが容易でないこと。また,そのさま。おおごと。 「準備が-だ」 「重くて-な仕事」です。大辞林 第三版の解説
文字にすると大変という字は大きく変わると書きますね。
そうです。物事が大変な時こそ、私たちも大きく変われるチャンスなのです。「大変だ〜大変だ〜」と愚痴をこぼしても自分が苦しいだけで、物事は何も進みません。「大変だ〜だけど自分が大きく変われる良い機会だから頑張ろう!」と思う事により物事が進んでいきます。そして何よりその事が「苦」で無くなるはずです。
 
私たちの幸せや苦しみはまわりの出来事が影響しますが、それを決めるのはすべて「自分の心」なのです。
 
どうぞ大変なときこそ「今がチャンス!」と気持ちを入れ替えてよい1年の締めくくりに励んでいただければと存じます。

雨ニモマケズ

雨ニモマケズ 風ニモマケズ
 
雪ニモ夏ノ暑サニモマケヌ
 
丈夫ナカラダヲモチ
 
慾ハナク 決シテ瞋ラズ
 
イツモシズカニワラッテイル
 
一日ニ玄米四合ト
 
味噌ト少シノ野菜ヲタベ
 
アラユルコトヲ
 
ジブンヲカンジョウニ入レズニ
 
ヨクミキキシワカリ ソシテワスレズ
 
野原ノ松ノ林ノ蔭ノ
 
小サナ萱ブキノ小屋ニイテ
 
東ニ病気ノコドモアレバ
 
行ッテ看病シテヤリ
 
西ニツカレタ母アレバ
 
行ッテソノ稲ノ束ヲ負イ
 
南ニ死ニソウナ人アレバ
 
行ッテコワガラナクテモイイトイイ
 
北ニケンカヤソショウガアレバ
 
ツマラナイカラヤメロトイイ
 
ヒデリノトキハナミダヲナガシ
 
サムサノナツハオロオロアルキ
 
ミンナニデクノボートヨバレ
 
ホメラレモセズ クニモサレズ
 
ソウイウモノニ
 
ワタシハナリタイ
 
宮沢賢治「雨ニモマケズ」

ストレス

ストレスは病気の原因だとかストレス解消のためにとか言って、ストレスはすべての人間にとって悪いものだ、ないほうがよいといった考え方がいまの社会では一般的ですね。
 
しかし、ストレスは避けられるものではありません。
 
避けられない以上、むしろストレスに立ち向かい、これを前向きに受けとめる、といった人生観を確立することこそ大切でありましょう。
 
動物園の動物とサーカスの動物を比較すると、サーカスの動物の方が強くて、長生きするそうです。
 
サーカスの動物は、より強いストレスを受けているわけですが、そのストレスはマイナスではなくプラスに作用しているというのです。
 
つまり、サーカスの動物は“目的”を与えられています。
人間によって与えられた“目的”であるにせよ、目的をもつことによって、ストレスに耐えることができ、それが強くて長生きする原因になっているのです。
 
人間はより価値ある生き方を求めて、自ら“目的”を設定します。
その“目的意識”はすべての苦難をのりこえさせます。
つまりストレスがプラスに作用してゆくのです。
 
厳しい寒さの中に滝に打たれて修行したり、水をかぶって行をしたりする宗教行がありますが、進んで修行する人にとっては、それが心身の鍛練となるのですが、いやいや滝に入ったりしたら、とたんに風邪をひいてしまうでしょう。
 
仏教でいう煩悩即菩薩とか、生死即涅槃とかいうことは、ストレスを積極的に受け入れよという人生観でもあるのです。合掌

従地涌出品(じゅうじゆじゅつほん)第十五

そのとき他の世界から来た、八つのガンジス川の砂の数ほどの菩薩たちは、起立し、合掌し、礼拝して釈尊に言った。 「世尊よ、もしわれらに、世尊の入滅ののち、この娑婆世界でこの経を護まもり、読み、誦し、書写して供養することをお許し願えれば、 われらは広くこの経を説いて廻りましょう」 釈尊は諸々の菩薩たちに告げた。 「いや、その必要はない。わたしには六十のガンジス川の砂の数に等しい菩薩たちがいる。さらに一人一人の菩薩に 六十のガンジス川の砂の数に等しい随行者がついている。このものたちが、わたしの入滅ののちにこの経を護り、読み、誦して 広くこの経を説くだろう」 そのとき、娑婆世界の三千大千世界のすべての国土が激しく揺れ、地が割れ、その中から幾千万億の菩薩たちが一気に 湧き出てきた。身は金色に輝き、如来の相を有し、光明を放っていた。みな娑婆世界の下の虚空に住んでいて、釈尊の声を聞いて 現われてきたのである。・・・続く

法華経の中の第十五番目のお経に従地涌出品があります。大地が震動して裂け、地の底からたくさんの菩薩が湧き出てきたというお話です。
そしてそれを見た弥勒菩薩がお釈迦様に「これらの菩薩はいったい何処から、何の為に表れたのですか?」と聞きますと、お釈迦様は「彼らはこの娑婆世界の下にある虚空に住んでいる菩薩たちで私の弟子達である。私の救済活動の手助けをしに参ってきたのだ。」とこたえられたそうです。
この大地が揺れ動く事がまさに東日本大震災であり、そこから沸き上がった菩薩達がまさにボランティアの方々や募金活動をしている人たちではないでしょうか?
私たちの心の中には誰しも「仏性」というものがあります。被災地はまだまだ復興のめどがたっていません。どうぞ、皆様の心の中にある「仏性」をもう一度起こして、私たちの菩薩行であります「亡己利他」の精神で被災地の方々の手助けをしていただきたいものです。合掌

合掌のお話

 
合掌は胸の前で両手を合わせ、相手に対する尊敬の念を表す礼儀作法の一つであり、お辞儀であり、相手に敬意を表し心から頭を下げるのと同じ意味です
 
また、中国の拱手(こうしゅ)、西洋の握手(あくしゅ)と同じ意味があります。
 
また、合掌は世界を問わず神や仏を信仰するものにとって、その本尊、聖者を礼拝する必須の作法なのです。
 
合掌のやり方は様々ではありますが、どれも尊敬と帰依の念を表している事は共通なことなのです。
 
密教では、右手を仏界、左手を衆生界といい、両手の掌(たなどころ)を合わせる事によって凡身即仏(ぼんしんそくぶつ)の相を示すものであると言われています。
 
合掌には様々な種類の印があり、基礎になるものですが、その基本的な合掌の形と意味を今回は説明したいと思います。

堅実心合掌
最も一般的な合掌。両手の平および指をまっすぐに伸ばしてずれや隙間のないようにぴったりと合わせる。素直で偽りのない祈りの心を表現するとされる。また堅い心をあらわすところから有心の合掌とも言われています。

虚心合掌
手の平と手の平の間に、少し隙間ができるように合わせる。子どものような穢れのない心を表現するとされる。また、堅実心合掌とは対照的に意識的に心にかけず自然に両手を合わせるところから無心の合掌または空心合掌とも言います。

金剛合掌
指を少し開き、交互に組むようにして右手を上に手の平を合わせる。左手を上にする人もいるがそれは正しくない。より強い仏への帰依を表すとされ、帰命(きみょう)合掌とも呼ばれる。密教にて多く用いられ、諸尊通用の印であるため、これを普通印、略して普印という。また浄土門にあってもこの合掌を一心恭敬の表示として大いに勧奨し、念仏を唱える時もこの合掌をする場合があります。

蓮の花

 

このごろうちの玄関の蓮が咲きました。とても綺麗な花です。
 
さて、蓮と言えば仏教ととても密接な関係にあります。
 
極楽浄土にはたくさんの蓮の花が咲いていて、亡くなって仏様に導いていただいた方は(私はまだ行った事がありませんが・・・)、そのお浄土のどこかの蓮の花の上に生まれて、阿弥陀様の御慈悲のもと思う存分修行する事ができるのです。と、言われています。
 
一蓮托生という言葉があります。
 
この言葉の意味は、よい行いをした者は極楽浄土に往生して、同じ蓮の花の上に身を託し生まれ変わること。転じて、事の善悪にかかわらず仲間として行動や運命をともにすること。
▽もと仏教語。「托」は、よりどころとする、身をよせる意。「託」とも書く。※goo辞典より転載
 
私たちが生きているこの世で、いつまでも一緒にいたい人と、また極楽で一緒の蓮の花の上で会いたいものですね。
 
では、なぜ蓮の花が仏教的に大切なのかといいますと、
 
1、泥の中で蓮は育ち、奇麗な花を咲かせます。泥はこの世、水面より上はあの世(極楽世界)を表します。その水面上に奇麗な花を咲かせるのです。たくさんの仏様はこの蓮の花の台(蓮台)に乗って私たちを見守っています。
 
2、蓮の蕾の時から花の中に実を持っているのです。普通の花ならば、花が咲き風や虫などにより受粉しそれから実をつけていきます。ですが、蓮は最初から実を持っていて、これは花の中に仏様(仏性)を宿していることを表しています。
 
3、泥水の中に生えているのに水に濡れないのです。世の中のたくさんの誘惑(魔、煩悩)に染まる事なく毅然とした心を表しています。
 
このように蓮はとても仏教的な意味をたくさん含んでいます。
 
私たちもこの蓮のように、泥水のような世の中でも泥に染まる事なく奇麗な花を咲かせたいものです。

煩悩のお話

私たちは毎日おきている出来事に対して自分の判断で物事を決めたり感じたりしていますね。武者小路実篤のエッセーにもこんなやり取りがあります。
 
自分が物につまづいた時は「誰だ!こんな所に物を置いて!人に怪我をさせる気か!」と腹を立てる。
 
ところが立場が代わって他の人が物につまづいた時には「バカ、どこに目を付けてるんだ。」となる。
 
これに類した独りよがりは誰もがかなりしていることでしょう。ただ本人が自覚していないだけで。最近の政党や派閥の討論なんかを聞いているとこうした茶番劇を思い出します。
 
こうした我愛による片寄った認識や評価を仏教では「見惑(けんわく)」といいます。
また、人は時として迷情というものに陥りがちです。それが「思惑(しわく)」です。
さらには「纏(てん)」といってこの身や心にまとわりつく煩悩があります。金縛りにあったように、焦ってもただモグモグと蠢くしかない状態です。
 
煩悩の正体はこの三種を分けて、仏教では見惑88、思惑10、纏10と数えます。合計すると108煩悩になるわけですね。
 
また108煩悩を6通りに集約した「18煩悩」というものもあります。
 
それは、貧(とん)むさぼり・瞋(じん)いかり・痴(ち)おろかさ
慢(まん)うぬぼれ・疑(ぎ)うたぐり・見(けん)かたよった見解
忿(ふん)内面のいかり・恨(こん)うらみ・覆(ふく)言い訳
悩(のう)決心がつかない・慳(けん)物惜しみ・誑(おう)たぶらかす
諂(てん)へつらう・驕(きょう=正式にはリッシンベンに喬)おごり
害(がい)思いやりがない・嫉(しつ)ねたみ
無慚(むざん)自分のした事に恥じない・無愧(むき)他に恥じない
 
となります。普段の生活における自分の行動に当てはめるといくつか思い当たる節があるのではないでしょうか?

お彼岸

3月はお彼岸の季節ですね。お彼岸にはお寺で彼岸会など先祖供養の法要などが盛んに行われます。皆さんも墓参りや実家の御仏壇やお寺に足を運ばれた事でしょう。
 
ところで、この彼岸ですが、彼の岸と書きますね。そうです。彼の岸(極楽浄土)の事をさしています。春分の日と秋分の日は太陽が真西に沈んで行きます。真西には西方極楽世界があり、春分の日や秋分の日前後3日間ずつは一番極楽に近い日として、先祖供養の報恩感謝のお参りをするのです。
 
彼岸のことをサンスクリット語で「パラ」と言います。
「般若心経」というお経があります。皆さんもよく耳にしたり、一緒に唱えたりする最もポピュラーなお経です。この般若心経は「空」の事を説いているお経ですが実は「彼岸に渡るための教え」を説いているのです。
 
般若心経の中に般若波羅蜜多という語句があります。この般若波羅蜜多をサンスクリット語になおしますと、パンニャ パラ ミータになります。パンニャとは仏の智慧、パラミータとは彼岸に渡るという意味なのです。ですので、佛説摩訶般若波羅蜜多心経の意味は「仏さんが説く(佛説)とてもものすごい(摩訶)仏の智慧で(般若)彼岸に渡る(波羅蜜多)核心をついたお経(心経)」となるのです。
お彼岸とはご先祖様がいる極楽浄土をさしていますが、彼岸は死んだ人だけではなくて、この般若心経にもあるように生きている人も彼岸に行けますよ!というお経なのです。
 
般若心経は「全ては空なんですよ」というお経です。(かなりかい摘んでますが・・・)私はまだ悟れていませんので空の事はよく説明できませんが、一つ、「空」になれる事を知っています。
 
それは、「無心になる」という事です。いわゆる、無我夢中にひたむきに集中して取り組んでいる状態の事ですね。皆さんも自分が楽しい時、集中している時、自然と「無心」になっている事でしょう。その時は明日の事や昨日の事昔の事・・・得するとか損するとか、誰が見ているとか見ていないとか、そんな事どうでも良いし、考えてもいないのです。ただその事に集中して取り組んでいるのです。今、その時を集中して全力で取り組んでいるのです。それこそが「無心」であり「空」ではないでしょうか?
 
私はこう考えます。まだ小さかった子供の頃、私たちは(私は)毎日毎日遊ぶ事に一生懸命でした。明日の事なんか考えてませんでした。もちろん友達には「またね!」「明日ね!」なんて言ってわかれていましたが。遊んでいる時にはそんな事考えている事はなかったのです。そうです。子供のときは何でも経験する事が新鮮で、毎日楽しくて「その時」を一生懸命生きていたんですね。いつしか大人になって経験もある程度豊かになり、予測出来るようになり、それが返って新鮮味がなくなり・・・という状態ではないでしょうか?そして身体が老いてきたり、病気になったり、失敗したりでつい、昔を振り返ってしまい「昔は良かったな〜」なんて思ってしまうのではないでしょうか?
 
人間は次というステップがあると今よりも良くなっている状態でないと納得しない生き物なんですね。ですので昨日より今日、今日より明日というように今よりもっと良い状態でないと駄目なんですね。ですが明日は絶対に来ないんです。何故かというと、私たち(私)は今現在だけ生きているからなんです。今の連続で私たちは生きています。明日も時間が来たら「今」になり、その結果「昨日」になって行くのです。常に繋がっているのです。ですから明日の為に目標を持って何かをするのは素晴らしい事ですが、明日の事を考え、心配し、昨日の事を後悔しながら行動し、その為に「今」を捨ててはならないのです。心ここにあらずでは何にもならないのです。
 
今、目の前にある出来事、やれる事、できる事に一生懸命全力をつくしていく。それをしていくことによって1歩1歩少しずつ「空」に近づいていけるのではないでしょうか?
 
その「空」の時間が増えていく事で皆さんもこの世にいながら「彼岸」に近づく事(もしくは感じる事)ができるのです。

今を大事に

 

家族が1人亡くなると残された遺族は大変なストレスを受けます。
1967年にアメリカの学者が調査した結果、配偶者の死を100とすると、
肉親の死=63、親友の死=37、
別のストレスとして
夫婦の離婚=65、けがや病気=53、リストラ=47、
100万以上の借金=31
となるそうです。
 
それほどのストレスを受けたときは我慢をせず泣いた方が後々精神的、肉体的にも良いそうです。これは死別の時だけではなく他のストレスにも当てはまる事でしょう。
 

強がりなんか いうことないよ
やせがまんなどすることないよ
だれにえんりょがいるもんか
声をかぎりに泣くがいい
ただひたすらに 泣けばいい

相田みつを

振り返ってみると、

あのとき あの苦しみも みんな肥料になったんだなぁ
自分が自分になるための

肥料 相田みつを

 
人生は何年?
 

人生において 最も大切な時 それはいつでも いまです

相田みつを

 

過去は追ってはならない 未来は待ってはならない ただ現在の一瞬だけを強く生きよ

法句経