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節分の由来

2月3日は節分の日です。「節分」は本来、季節の移り変わる時の意味で、立春・立夏・立秋・立冬の前日を指していました。特に立春が1年の初めと考えられることから次第に、「節分」といえば春の節分を指すものとなりました。立春を新年と考えれば、節分は大晦日にあたり、前年の邪気を祓うという意味をこめて、追儺(ついな)の行事が行われていたわけで、その一つが「豆まき」です。

追儺とは悪鬼・疫癘(えきれい)を追い払う行事のことで、平安時代、陰陽師たちにより宮中において大晦日盛大に行われ、その後、諸国の社寺でも行われるようになった。古く中国に始まり、日本へは文武天皇の頃に伝わったといわれています。

なぜ、豆をまく?! 鬼は外!の鬼って何?


一般的には、豆まきは年男(その年の干支を持つ生まれの人)、または、一家の主人が煎った大豆をまき、家族は自分の歳の数だけ豆を食べるとその年は、病気にならず長生きすると言われています。さて、ここで何故、豆をまくのでしょうか?

陰陽五行、十干十二支という考え方が大きく関わってきます。

「鬼門」ってご存知でしょうか?風水や家相などの東洋占星術でよく使われる言葉で北東にあたる方位が鬼門とされています。

では、なぜ北東の方位が鬼門なのでしょうか?

いろいろな説があるのですが、昔の中国の道教の影響があると言われており、冥府の神として信仰されていた「秦山府君」が住むと言われていた山が北東にあったことから、
冥府→北東→鬼門といわれています。鬼門の方角は十二支では、丑と寅の方角(うしとら)に当り、鬼の姿はこの牛の角をもち、トラのパンツを身に付けています。ここで、丑というのは12月を、寅は1月を指します。ちょうど12月から1月にかけての季節の節目に「鬼門」があるのです。鬼門は鬼の出入りする方角でこの邪気を祓うことにより、春が無事に迎えられると考えられていました。ここで陰陽五行の法則の登場です。

五行とは、自然の道理を木、火、土、金、水の五元素の事を表しており、この「金」というのが、硬いとか、厄病という意味があり、鬼の象徴で鬼が金棒を持っているのもこの「金」の象徴です。この「金」の作用をなくすのが、五行でいう「火」に当ります。

大豆というのは、とても硬いという事で、「金」に当ります。イコール鬼です。これを火で煎る(火が金を溶かすという火剋金の作用)と同時に、豆まきで外や内にこの大豆がばらまかれて結局、人間が食べてしまうことにより、鬼を退治することになります。また、豆をまく事により、五行の「木」を助けるという事で、「春の気を助ける」から「春を呼ぶ行事」でもあります。

除夜の鐘

大晦日に、1年の締めくくりとして打つ除夜の鐘は、108の煩悩を消滅して、潔白な気持ちで新年を迎えようという仏教の行事です。


煩悩の数は、俗に108つあるといわれるが、なぜこの数なのでしょう?


それには、いくつかの説があります。


そもそも煩悩とは、人間の心を乱し、迷いを起こさせる想念の事。
その根本は貧(どん・むさぼり)、瞋(じん・怒り)、痴(ち・おろかしさ)などにあり、これらが年中人間につきまとっています。


1年には、”十二ヶ月、二十四節季、七十二候”があります。
二十四節季とは、気候の変化にしたがって1年(太陽年)を24に分けたもの。
さらに、1節季にあたる約15日を3等分した5~6日を候といい、気候の変わり目の最小単位としたものが七十二候。
この12、24、72を合計すると108となり、あらゆる時の煩悩の数を表すようになったという説。


また、煩悩とは人間の感覚器官である「六根(目、耳、鼻、舌、身、意)」にいろいろな状態で表れてくる想念のことでもあります。


この六根は「好、悪、平」という3つの不同の感じ方をします。
「好」は望ましい形、「悪」は望ましくない形、「平」はその中間をいい、その程度は「浄」と「染」とに分かれ、それが現在、過去、未来にわたって人の心を煩わすというので、すべてを掛け合わせた6×3×2×3=108が煩悩の数となる、という説。


さらに別の説もあります。
六根は六塵(色、声、香、味、蝕、法)に接する時に煩悩が生じ、それは、好・悪・平の三不同か、「楽(快い気持ち)」「苦(不快な気持ち)」「捨(快でも不快でもない)」の三受かに分かれる。すると、六根は、6×3(三不同)+6×3(三受)=36の状態に分かれ、それが過去、現在、未来のいずれにも存在するとして36×3=108となり、これを煩悩の数とする説です。


いずれの説にしても、仏教では煩悩の数は108には違いありません。


除夜の鐘は1~107までを年内に打ちます。
107番目に打つ鐘を「最後の宣命」といい、年が明けてから打つ108番目を「最初の警策」といいます。
「警策」は、座禅の時に気のゆるみをい戒めるために使われる棒のことです。


除夜の鐘を打つ風習は、中国では宋の時代、日本では鎌倉時代に禅寺ではじまったといわれています。

おかげさま

自分の番(相田みつを
父と母で2人 父と母の両親で4人 そのまた両親で8人…こうして数えてゆくと 10代前で1024人 20代前では…? なんと、100万人を超すんです
過去無量の いのちのバトンを 受け継いで 今、ここに 自分の番を生きている それがあなたのいのちです それがわたしのいのちです
私たちは1人の命で生まれ生きて来たわけではないですね。私たちには必ず両親がいます。そしてその両親にも必ず両親がいます。そうやって人間…全ての生物は命のバトンを受け継いで生きているのです。今までも。そしてこれからも…
それを踏まえた上でこの詩が生きてくるのではないでしょうか

ご先祖の血 みんな集めて 子が生まれ

ですが、最近の世の中の風潮はこのような感じではないでしょうか。

親孝行したい時には 親は無し
親孝行したくないのに 親がおり

私たちには、自然と決められた「両親」がいるように、かけがえの無い「絆」という縁で結ばれた人達がいます。友人であったり先輩であったり先生であったり子供であったり…ですが、その中でも特に縁を感じさせる関係はやはり両親を含む「先祖」ではないでしょうか。
歴史の教科書に載っている素晴らしい人物も、色んなお大師さまも、みんな最初は私たちと同じ「人」だったんですね。

仏も昔は人なりき 我らも終には仏なり

仏さまも昔は人であったし、私たちもいつかは仏になれるのではないでしょうか。皆さんのご先祖さまも今では立派な仏さまになられている事と思います。

そこで…

見えなくても 美しい花を 供えたい
食べなくても 美味しいものを 供えたい
聞こえなくても 一緒に話がしたい
そんな気持ちでご先祖さまを供養したい


という気持ちで先祖さまに両手を合わせる心のゆとりが欲しいものですね。今の世の中、心と体のバランスが崩れてきています。心にゆとりがないんですね。手を合わせる時間はほんの5分でも1分でもかまわないのです。まずは手を合わせて、亡くなったおじいちゃんやおばあちゃん、先祖の皆さんと心でお話される事が大事なんではないでしょうか。

銀の手。金の手。宝の手!

「口も八丁、手も八丁!」と千の手を持つ千手観音。その千の手は与願手・施無畏手・合掌手など、人々を幸せにするラッキーハンド。手を合わせるのは〝平和の印〟お釈迦様のキーサイン。両手のシワを合せるから〝幸せ〟と言い、喧嘩の拳を振り上げるとフシを合せて〝不幸せ〟になる。心が動くと手がうごき、手が動いたら、こころも動く。だから手のひらを〈掌・たなごころ〉と言うのでしょう。


千の手は、手をかえ、品をかえ必ずや救いましょう!という慈悲の表れですね。


みなさんもその手で箸を持ち、顔も洗うし、お尻も拭きます。先手に後手に素手、空手、手ほど便利なものはないですね。指折り数えれば計算機、「あそこ!」と指差せばウインカー。髪をかきあげれば櫛になり、涙を拭けばハンカチに。つないで歩けば心の絆。額にあてれば温度計。かゆいとこかきゃ孫の手と・・・ほんと様々です。両手を合わせればあなたも立派な仏様に。パチンコ玉や麻雀牌ばかり持ってたんじゃ手抜かり・手違い・・・手玉に取られ。素晴らしい手を持ちながら「善行」をしなければ〈宝の山に入りながら手を空しゅうして帰る〉の道理。悪の匂いは元から断たないとだめ。この逆境を脱するには身の行いを正して生きるしかないのです。


さて、観音様は〝アミタ〟というパラダイスに咲くという〈蓮華〉を持つから《蓮華手(パドマ・パーニ)》というニックネームをもちます。歌手・投手・運転手・というように名は体を表します。ならば手は人なり。と言ってもよいのではないでしょうか。皆さんの手は皆さんの行動様式、人格そのものですね。ですから苦手といい、やり手、ともいいます。相手が違えば勝手も違い、うわ手にした手に上手、下手。名手もいれば晩手もいる。すべて皆さんの人柄を表しています。


あなたが光るも曇るも手きわ・手心・お手並み次第。〝事にのぞみて後悔せず〟と宮本武蔵さんも言っておられます。まさに一期一会の心意気ですね。歴史上、たった一度の今日という日を皆さんもその手で輝かせて下さい。

ゴム紐の物差し

ゴム紐って物差しにはならないですよね?だってゴムですから。伸びたり縮んだりしますから。でも人って時々そのゴム紐で物事を測ったりしてるような気がします。


「豊かさ」を測るとき。私たちは、誰もがもっと豊かになりたいと思ってますね。年収500万の人は年収1千万に!とか、人によって様々な思いがある事と思います。


ですが、その願いがある程度達成されたときに私たちは満足するのでしょうか?年収500万の人が出世をして年収1千万になってもきっと「よし次は1500万になる様に頑張ろう!」と思うはずです。最初の願いは1千万でしたけど、物差しがゴム紐なので、決して満足できないのですね。


これは人間の欲望の本質ではないでしょうか。人間の欲望を測る物差しはゴム紐であって充足されればされるほどかえって欲望は大きくなる。ゴム紐はどんどん伸びて行く。なので私たちは欲望を満たす事はできないんですね。と仏教は教えています。


仏教には「」という言葉があります。「」というのは、我々が持っている物差しはゴム紐であり、物が正しく測れない〜ということを教えたものです。


では何で測ればよいか?残念ながら正しく測れる物差しはないのです。ですから私たちはゴム紐の物差しを使うより他ないのです。ですが、これは仕方なくそういているのであって、それゆえ私たちはそんなゴム紐で測ったものにこだわってはならない。その「こだわるな!」というのが「」の意味なんですね。


じゃぁ、どうしたらいいんだ!と思う方がいるはずです。ゴム紐っていうのは伸びたり縮んだりしますが、元々のゴム紐は、引っ張らなければそのまま紐の物差しとして使う事ができるのです。


引っ張らないためにはどうしたらいいか?といいますと、自らの欲望を少なくし、いま与えられている物で満足すれば良いのです。そう。仏教ではそれを

小欲知足



と言います。欲望を少なくし、足るを知るこころを持つのが、素晴らしい精神安定法ですよ。と仏教は教えているのです。

父母恩重経

仏は阿難を相手に説法された
仏はまず、人がこの世に生まれるには父母を親としたからで、父がいなければ生まれなかったし、母がいなければ育たないと説かれる。(1)子は母胎に宿ること10ヶ月して誕生するが、(2)お産の苦しみも(3)忘れて喜び、(4)母乳を飲ませる為に花のような顔がやつれたようになる。(5)子は乾いたところに寝かせ自分は湿ったところに臥せ、(6)懐に大便をし着物に尿をしても臭いや汚れも厭わない。(7)苦い物は自分が飲み甘い物は吐いて与える。そうした父母から受ける恩は極まりないほど広大なのである。


(8)子の為には悪い事でもしようと思い、(9)仕事中でも子供の事が頭から離れず顔を見るまで安心できない。(10)生きている間は身代わりになる気持ちで死んでからはいつまでも忘れない
以上を父母の10恩徳という。


子は2歳から3歳になり、一人で自由に歩き回るようになる。父母は外でお客になり出たお菓子などをお土産に持ち帰り、子供に与える。子は更に成長し友人関係が出来てくると、髪の手入れやいい服を欲しがり、父母は古着を着て新しい物を子に与える。


ところが、子供は結婚し妻を迎えると、とたんに父母をかえり見なくなり、自分たちの部屋にこもり楽しげに語り暮らすようになる。父母は年を取り気力は衰えてもご機嫌伺いに尋ねてこない。そのうち父なり母は連れ合いを失い、人気の無い部屋で寂しく暮らしている。それはちょうど他人の家に居候している客人のような心境である。恩愛のかけらもなく、夜も眠れない。嫁もバカにして笑う始末である。そしてなんでこのような不孝の子を産んでしまったのだろうと嘆きが出るものである。


ときに急用ができて子供を呼んでも10回のうち9回は返事もしないで、かえって怒鳴り散らしてこういうのである。
「早く死んでしまうがいいさ。何も無理して生きる事は無いんだから。」
父母はこれを聞いて嘆き悲しみ、涙を流してこう言うのである。
「小さい時お前は私達がいなければ成長できなかったではないか。お前を生んだには違いないがこれでは元々生まなかったのと同じだ。」
仏は重ねて阿難に語りかけた。父母のためにこの「父母恩重経」のひとつでも良いから記憶し、読誦し、書写すれば、犯した五逆の罪(人倫や仏道に逆らう罪で、犯せば無間地獄に堕ちるといわれる。五逆とは(1)母を殺す(2)父を殺す(3)聖者を殺す(4)仏身を傷つけ出血させる(5)教団を消滅させる)は消滅し、常に仏にまみえ法を聞くことが出来るという。

親は慈に 子は孝に 夫は正に 婦は貞に 親族和睦して 卑僕忠順・・・現には安穏に住し 後には善処に生じ 仏を見 法を聞いて 長く苦輪を脱せん・・・父母の恩に報ゆる。

施餓鬼会とは


「おせがき」は、「施餓鬼会(せがきえ)」「施食会(せじきえ)」などといわれ、各宗派を通じて行われる仏教行事の一つです。


無縁の祀られない霊は、餓鬼になり災いを引き起こす。そんな言い伝えがあります。その餓鬼に飲食を施して供養する法会が施餓鬼会です。中国の唐の時代に盛んになり、日本では平安時代の初めから行われる様になりました。

 その由来は『仏説救抜焔光餓鬼陀羅尼経』という経典によります。



 お釈迦さまの弟子阿難尊者が夜、ひとり静かなところで坐禅していますと、焔口(えんく)という餓鬼が現われました。やせ衰え、のどは細く、口からは火を吐き、髪は無茶苦茶に乱れ、目は奥のほうに光る醜い恐ろしい餓鬼でありました。その餓鬼は阿難尊者に向って「三日の後、汝の命は尽きてわれと同じような餓鬼となるだろう」と告げました。尊者は驚愕し、「私はまだ修行が浅く、悟りに至っていない。まだ死ぬわけには行かないのだ。どうしたら死なずに済むであろう」と問い返しました。餓鬼は「あらゆる餓鬼と、婆羅門(修行者)に飲食を施せ。そうすれば我ら餓鬼は飢えから救われ、天に生まれ変わる事が出来るだろう。その功徳によって、お前は長命と幸福を得る」と言い残して姿を消しました。


 尊者は呆然とし、どうやって餓鬼に施してよいかも分からず、泣いてお釈迦様に訴えました。そこでお釈迦様は全ての餓鬼や婆羅門に飲食を施し、苦しみから救う秘術を阿難尊者に授けたのです。その秘術に従って餓鬼や婆羅門に施す事が出来た尊者は、長寿を全うし悟りを開く事が出来たのでした。

 こうして始まったのが「施餓鬼会」だとされているのです。


盂蘭盆会の由来について・・・ 



 ある時お釈迦さまの弟子の目連尊者が父母の養育の恩に報いるために修行で得た神通力で亡き父母をさがすと、母は餓鬼道にいて骨と皮ばかりにやせ衰えていた。それを見た目連は食べ物を鉢に盛り母に差し出した。しかし、母が食べようとすると、それは、口のところで火に変わってしまい食べることが出来ません。目連は悲嘆のあまり号泣し、お釈迦さまの処へおもむき、そのことをありのままに述べました。お釈迦さまが示されるところによると、目連の母が餓鬼道に堕ちたのは過去世の罪過があまりに深いからであり、それを救うには汝の神通力でも如何ともしがたい、多くの出家者の力によらなければならないということでした。そして、お釈迦さまは「救済の法」を示し、その法によればすべて「憂苦を離れ罪障を消除」させることができると説示されました。この「救済の法」というのがお施餓鬼会の起源であり、お盆はご先祖さまへの孝順供養の教えであるといえます。


盂蘭盆会に施餓鬼を営むのは目連尊者が餓鬼道におちた母を救った事に由来するものです。施餓鬼会におけるいろいろな供物なども、荘厳法(かざりつけ)も盂蘭盆会の意味が含まれているという訳です。


 天台宗では、僧堂生活においてご飯をいただく時に、食台の隅に七粒のご飯をとる生飯(さぱ)ということをおこないます。一年中毎日施餓鬼供養をしているといえるでしょう。このいのちとは、この地上に生命を受けている動物植物をいただき、限りないご縁と多くのお陰をいただき尊い命を受けているのですから、自己の内心にある飢渇の心と行動を含め「少欲・知足」を感得し、一切衆生の餓鬼・精霊に施食し、衆生と共に仏道を成ずるよう修行しているのです。

手紙〜親愛なるこどもたちへ〜

手紙〜親愛なる子供たちへ〜 /樋口了一


年老いた私が ある日 今までの私と違っていたとしても
どうか そのままの私のことを理解してほしい
私が服の上に食べ物をこぼしても 靴紐を結び忘れても
あなたにいろんなことを教えたように 見守ってほしい


あなたと話すとき 同じ話を 何度も 何度も 繰り返しても
その結末を どうか さえぎらずに うなずいてほしい
あなたにせがまれて繰り返し読んだ絵本の あたたかな結末は
いつも 同じでも 私の心を平和にしてくれた


悲しいことではないんだ
消え去ってゆくように見える私の心へと
励ましのまなざしを向けてほしい


楽しいひと時に 私が思わず下着をぬらしてしまったり
お風呂に入るのをいやがるときには 思い出してほしい
あなたを追い回し 何度も着替えさせたり
様々な理由をつけていやがるあなたと お風呂に入った
懐かしい日のことを


悲しいことではないんだ
旅立ちの前の準備をしている私に
祝福の祈りをささげてほしい


いずれ 歯も弱り 飲み込むことさえできなくなるかもしれない
足も衰えて 立ち上がることすらできなくなったなら
あなたが か弱い足で立ち上がろうと 私に助けを求めたように
よろめく私に どうか あなたの手を握らせてほしい


私の姿を見て悲しんだり 自分が無力だと思わないでほしい
あなたを抱きしめる力がないのを知るのは つらいことだけど
私を理解して支えてくれる心だけを持っていてほしい
きっと それだけで それだけで 私には勇気がわいてくるのです


あなたの人生の始まりに 私がしっかりと付き添ったように
私の人生の終わりに 少しだけ付き添ってほしい


あなたが生まれてくれたことで 私が受けた多くの喜びと
あなたに対する変わらぬ愛をもって 笑顔で答えたい


私の子供たちへ 愛する子供たちへ……

本願ぼこり



善人なほもて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世の人つねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。

この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。

そのゆゑは、自力作善の人(善人)は、ひとへに他力をたのむこころ欠けたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれら(悪人)は、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。よつて善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候ひき。

『歎異抄』第3章

悪人正機(あくにんしょうき)は、浄土真宗の教義の中で重要な意味を持つ思想で、「悪人こそが阿弥陀仏の本願(他力本願)による救済の主正の根機である」という意味ですね。


阿弥陀仏が救済したい対象は、衆生です。すべての衆生は、末法濁世を生きる煩悩具足の凡夫たる「悪人」で、よって「悪人」であると目覚させられた者こそ、阿弥陀仏の救済の対象であることを知りえるという意であります。


『仏説無量寿経』には、すべての人が悲しみ苦しみにあえいでいる姿をつぶさに観察した法蔵菩薩(阿弥陀仏の修行時代の名前)は、この人たちすべてが仏となって幸せになってもらいたいと誓いを立てた。その48の願いの第18番目の願いに、「私を信じて、私の作った仏国土(極楽浄土)に生まれたいと思って、私の名前を呼んだものは、すべての人を私の国土に生まれさせて、私の指導によって、ゆるぎない幸せな『仏陀』にさせよう」とある。(抜粋・意訳)

すなわち、すべての衆生が救済の対象である。



と、悪人でも「自分が悪い人なんだ。」と自覚したら救われるという教えを悪用して(知ってか知らぬかわわかりませんが)「私は悪いことをした。だから救われるんだ!」というような開き直りをする人が最近は増えてきているかと思います。


人を殺す為に用意する刃物・・・ちょっと昔までは人を脅す為に持っていて、それに怯まなかったから引くに引けず、勢いで足を刺してしまった。というような事件のほうが多かったと思います。

「そのうち自分達は死んじゃうんだよ」みたいな発想で


だから「他の人がどうなろうと知ったこっちゃない」


って人いう考えの人が増えてきているのでしょう。



私たちは1人では生きていけません。親がいなければ、おじいちゃん、おばあちゃんがいなければ、ご先祖様がいなければ、この世に生まれていなかったのです。

「別に頼んで生んでもらった訳じゃねぇし、そんなの関係なくね?」


って考える人の気持ちもわかります。


でも良く考えてみて下さい。


あなたをお腹で育ててくれたのは誰ですか?


まだご飯も食べれないあなたを暖かい毛布で暖めたり、おっぱいをあげたりしてくれたのは誰ですか?


学校に行かせてくれたのは誰ですか?


遊んでくれたのは誰ですか?


仕事をさせてくれているのは、雇ってくれているのは誰ですか?


困ったときに助けてくれるのは誰ですか?


その家に住んでいて、明かりを付けたり、テレビを観たり、洋服を着たり・・・
それはあなたが作ったものなのですか?


ご飯を食べていますが、それは誰の命なんですか?


そう。あなたも、私も1人じゃ生きて行けないのです。


「俺は悪人だよ。だから何?」「そんなの関係なくね?」


って、あなたが考えていても、実は回りの人に関係があるのです。


みんな1人では生きていけないのだから。

会った人を笑わせる


「笑わせる、いうんは、『空気を作る』っちゅうことなんや。場の空気が沈んでたり暗かったりしても、その空気を変えられるだけの力が笑いにはあるんや。ええ空気の中で仕事したら、ええアイデアかて生まれるし、やる気も出てくる。人に対して優しゅうなれるし自分のええ面が引き出される。それくらい空気いうのんは大事やし、笑いって大事なんやで。」

〜夢をかなえるゾウより転載〜



その(人)だったり、または(職場)、(家庭)など人が集まっているところには、雰囲気がありますね。その雰囲気は良い雰囲気だったり、悪い雰囲気だったりすると思います。景気の良い(人)(職場)には活気のある空気、経営がうまくいってない(人)(会社)にはどよ〜んと曇った空気が流れているものです。学校でも、家庭でも、みんなが笑ってたり、良い集中力で何かに励んでいる雰囲気は心地よく、誰かが怒って当たり散らしていたり、不機嫌でムス〜っとしてたら回りの空気まで悪くなります。目上の人が不機嫌だったりすると、部下は思った事をうまく言えなかったり、言い出すタイミングを失ったりもしますね。

それくらい「空気」は大事なんですね。

無財の七施」の中に「和顔施」というものがあります。和やかな顔で相手に接することによって相手の方、そして回りの人、それをとりまく環境までもが明るく優しさに満ちあふれてくるのです。


人を笑わせるというのは「ガハガハ!」「あ〜ハッハ!」など腹を抱えて笑うだけではありません。微笑むだけでも良いのです。私たちはお笑い芸人ではありませんから、なかなか腹を抱えて笑わせるのは難しいですね。ですが、微笑んだり、相手が微笑むような気持ちにさせるのは私たちでもちょっとした気配りでできそうですね。


良い雰囲気も悪い雰囲気も伝染していきます。皆が力を合わせて、そして良い雰囲気でこの不況を乗り越えていきたいものです。

合 掌

諷誦について

青松寺鷲谷亮順



経文等を声を挙げて読むことをふじゅといい、詩文を暗誦することをふうしょうというが、節をつけて諷誦暗誦することを一般的に諷誦といっている。
諷誦文は平安時代以来の風習として行われ、主として死者の追善のために、施主が供養の趣旨を述べて、施物を添えるのを例としている。この諷誦文を佛前に捧げ、僧が読むのを聞くことが死者に対する追善になると考えられている。
僧の声の抑揚、文章の巧みさが要求され、参会者に「荘厳さ」と「厳粛さ」を通して、宗教的雰囲気をかもし出し、宗教的満足感を与えることが肝要である。


諷誦文を作る一般的な順序として次のような形式がある。


1、発端の句や春花秋月等の風情を述べる。


2、生前の業績や職業の述懐


3、病気のことや、死の無情について。


4、悲嘆や報恩謝徳について。


5、追善の句を述べ、それを佛法に帰する。


6、回向





謹みて呈す諷誦文の一章


去り行く歳月は 恰も流れる水の如く 過ぎ行く人生は 暁の夢に似てはかなし


人間ひとたび逝けば 再び帰りて相見えることは 更に無し 


まこと温愛の情は断ち難く


哀惜の涙止め難し


此処に当山 春彼岸会に因んで特別回向 


信心の施主は○○○様にして


弔う精霊は 俗名○○○様 法名○○○


天倫に従い世相に順応すること史上稀な一世紀 


明治・大正・昭和・平成と


激動の社会を妻○○○様と手を携えて生きること七十有五年 


町の長者番付には夫婦共に並び、


世人の羨望の的たり


然るに寄る年波には勝てず 


町の農協長・地区の長老・○○○寺総代等


幾多の業績を残し 巨星は墜つ


仰ぎ願わくば 鷲峰の教風を移し 


法華一乗の醍醐味を調え


無為玉泉の法水を注いで一念三千の円理を垂れ給え


人の世の 務めを終えて 安らけく 大慈のみ手に 帰るぞゆかしき

念佛

以一味雨潤於人華

(いいちみうにんのにんけ)


一味の雨をもって人華を潤す(法華経)


この語は、法華経の第五章薬草諭品の中にあります。


法華経は、釈尊の説かれた経典の中で、最もよく釈尊のお心を解き明かした最高の経典として天台宗では尊崇しています。この中で釈尊は、すべての人が仏となれること、そしてそのための修行の道を説かれ、釈尊一代のご教化はこの教を説くためであったことをいろいろな喩えでとかれており、この語の「一味の雨」とは法華経の教えのことであり、「人華を潤す」とは草木が雨の恵みを受けて繁茂し開花結実していくさまに諭えて、人々の仏性(仏となるべき本性)が法華経という法雨によって、花開き実を結んで成仏の目標に到達することを説かれたものです。


 この章の中で釈尊は、雨は一味平等に草木に注がれるが、草木には大小さまざまの種類があって、それぞれが分に応じて生育していくように、釈尊もまたすべての人に平等の教えを説かれつつも、その教化の方法は、人それぞれの性質、才能に応じて最も正しく適切な方法でお導きになって、人々をお救いになられたと説かれています。この法華経の教えは現在の教育のあり方にも大きな示唆を与えるものといえましょう。伝教大師は、この教えによって、多くの名僧をお育てになったのです

天台こよみ法話集より

「成仏国土成就衆生」

仏国土を浄め衆生を成就せん (発願文)


「成仏国土成就衆生」・・・仏国土を浄め衆生を成就せん


 この語は、伝教大師様が比叡山にこもられて間もない二十歳の頃に書かれた「発願文」の中のお言葉ですが、これと同じ語は「法華経」等の大乗経典の中にも記されています。大師さまのご一生は、ひとえにこの語にこもる願いに貫かれていたのです。


 「仏国土を浄め」の仏国土とは、天台の教えによれば、私どもの住むこの世界に外なりません。しかし、この現実の国土がそのまま仏の浄土とは到底私どもには考えられません。それはこの国土が持っている浄土としての本質を、私ども人間が自らの手で汚し濁らせてしまっているからです。今日見られる国土の荒廃、人間同士の争い等の中にもこのことが明白であり、それは私ども人間の自己中心の我欲文化がもたらしたのです。


 ここに私どもが「自己中心」の考えを離れて、自然をも含めて他との協調を重視し、共に手を取り合って、向上と進歩を目指して生きることが、現下の急務とされる所以があります。こうしてこそ、この国土も浄土としての本年の姿を回復していくのです。それが為には、私ども一人一人が菩薩と呼ばれる理想的人間として生きる自覚を持たなければなりません。「衆生を成就せん」とは、大師さまが私どもに托されたこの永遠の願いを示すものです。

合掌

海内求縁力 帰心聖徳宮

(伝述一心戒文)


海内に縁力を求め 心を聖徳の宮に帰す


このお言葉は、伝教大師さまにお仕えして、辛苦を共にされた光定(こうじょう)という方が記された「伝述一心戒文」の中にあり、大師様が聖徳太子のご霊前に捧げられた詩の一節です。


聖徳太子(五七四~六二二)は、大師様より百五十年程前にお出ましになり、仏教にもとづいて国政をみそなわし、日本仏教の親として崇められているお方です。


大師様は、早くから聖徳太子の教えに帰依され、そのお心を受け継いで天台宗を開こうと志されました。それは、聖徳太子が「法華経」「勝鬘(しょうまん)経」「維摩(ゆいま)経」というお経を註釈なされて、仏教はお坊さんだけのものでなく、一般の人々も共に学び、修行するところに、その真髄があるとお示しなされたことが、一つの要因をなしていると思われます。しかし、この大師様のお考えも、なかなか当時の仏教界には受け入れられず、苦境の中でその信念を貫かれていかれました。そのような時、四天王寺の聖徳太子廟に詣でられた大師様は、海内(日本国内)において、自分のよりどころ(縁力)は、太子の教えである。私は心から太子に帰依申し上げますと、太子のみ教えを敬仰されたのです。実にこの詩の中に、日本仏教の行く手が明示されたといえる、大事なお言葉です。

天台こよみ法話集から

「仲間」

「人間 人間 ひとのあいだ あんたが居ないと 生きられん」


人は一人では生きられませんね。この文字を作った人に感心してしまいます。


私は今九人家族で暮らしています。


音楽の仲間がいます。仏教音楽である御詠歌の生徒さんがいます。


ボランティアの仲間がいます。多くの檀家の皆様に囲まれて暮らしています。


観光においでになり私の法話を聞いて下さる方々もいらっしゃいます。


遠くアメリカ、マレーシア、ハワイ、イタリアにも知人があります。


そして、言いたい事をズケズケと言える友達。


こうして私が本を作るにも多くの皆様の協力があってこそ。そんな風に考えると私一人で成り立っているものはないに等しいのです。


ギターを抱えてお説教はできても聞いてくださる皆様の存在があればこそここまで来れたのです。


人の間、あいだにいればこそ私の存在があるのです。そうです。すべての人が、間をつくり、間に生かされているのです。

「ギター和尚のおげんき説法」 曹洞宗大悲山向陽寺住職 渡辺紀生著

お彼岸

9月になると仏教行事として大切な、「お彼岸」がやって参ります。


 「彼岸」とはどういうことかと申しますと、仏教では生死の苦しみに迷っている、この現実の迷いの世界を、此の岸と書いて「此岸」といい、悟りの世界、即ち彼の岸を「彼岸」といいます。


 この迷いの世界、即ち「此岸」から、悟りの世界、即ち「彼岸」へ到達することを、「到彼岸」と言います。


 したがって、普通「彼岸」・「お彼岸」と言っておりますが、本来は「到彼岸」と言うほうが正しいのかも知れません。


 この彼岸に到達するために、六つの方法があるといわれております。これを六波羅蜜といいます。


 その波羅蜜の内容は、一つ目が「布施」、これは、お寺にあげるお布施ばかりではなく、人に親切にしてあげること、二つ目は「持戒」といって、戒律を守ること、即ち、生き物を殺さないとか、嘘偽りを言わないといった戒を守ること。三つ目は、「忍辱」といい、我慢をすること。四つ目は、よく精進努力といいますが、その「精進」で、この期とに熱心に励むこと。五つ目は、「禅定」といい、心静かに保つこと。六つ目は、「般若」ともいうし、「智慧」ともいいますが、正しい智慧を磨くこと。


 以上申し上げました、布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧(般若)の六つのことに努力することが、悟りの彼岸に到達出来る方法とされております。


 また、彼岸の中日頃は、朝日の出る時刻と、夕日の沈む時刻が丁度同じ位で、日中の長さと夜分の長さが同じ位になります。そして、この頃の太陽は、真東から登り、真西に沈むことに関して、天台宗や浄土宗系の方々は、この頃の日の沈むところに西方浄土があり、この方角に向って『南無阿弥陀仏』と唱えたり、仏教徒は、このお彼岸中にお墓参りをすることが、ご先祖に対する、一番のご供養であるとされております。


 こおろぎの鳴き声が、「肩させ、裾させ、冬がくる」と言うように聞こえてくると、昔の人は「着物の肩や裾のほころびや切れたところを繕って、冬の準備をしなさい」と教えてくれているのだと伝えられました。


 お彼岸の頃は、心を清め、先祖を敬い、更に来るべき冬の準備をする良い時期だと思います。

この世からあの世へ



追善供養は、人の死後、その冥福のために、いろいろなしきたりやいわれで行う仏事です。そのことについて考えてみましょう。


 七日ごとの中陰の仏事を大事に営むのは、輪廻転生(りんねてんしょう。生ある者が生死を繰り返すこと)の考え方からです。人間が生まれることを生有(しょうう)といい、その一生を本有(ほんう)、死の時が死有(しう)といい、死んでから次の生を受けるまでの間が中有、または中陰(ちゅうう、ちゅういん)といわれ、四十九日をあてるのです。


 次の本有とは十界をさします。地獄界・餓鬼界・畜生界・阿修羅界・人間界・天上界・声聞界・縁覚界・菩薩界・仏界です。


 中陰である冥土への旅を死出の旅ともいいます。冥土には、死出の山泰山(たいざん)があってそこまでたどり着かなければならないのです。


 間もなく川が見えてきます。これを三途の川(さんずのかわ)といいます。この川を渡るには三つの途があって、生前の業によって、善業の者は橋を渡り、罪業の軽いものは浅瀬を渡り、悪業の者は深い急流を渡らなければなりません。そして、川の向こう岸には衣領樹(えりょうじゅ)という木があり、その上に懸衣翁(けんえおう)がおり、下に奪衣婆(だつえば)が待ち構えております。そこで亡者は着物を剥ぎ取られ枝にかけられます。亡者の罪は着物の重さ、枝の垂れ具合で計られると言うのです。


 ここに冥土の十王というのがおります。死者の業を審判する冥官(裁判官)です。初七日までに秦広王(しんこうおう)が死者の行跡(業)について観審します。二七日、初江王(しょこうおう)の審判では、死者が自分にまつわる業、自業自得を知らされるのです。三七日、宋帝王(そうたいおう)の審判です。王のかたわらには猫と蛇がいて、生前の邪淫についてしらべられます。四七日は五官王(ごかんおう)です。ここでは秤りを使って罪の軽重がはかられます。五七日は閻魔王(えんまおう)です。ここでは鏡に生前の行いが映し出されます。六七日は変成王(へんじょうおう)です。五官王の秤りと閻魔王の鏡とがつきあわされます。七七日、泰山王(たいざんおう)のもとに送られます。ここが中陰最後の審判になります。しかし、この審判は、こな冥官による強制ではなく自分が自分の業によって自分の運命を選ぶことになるのです。今目の前に六つの門があります。すなわち六道の門です。六道とは、地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上のことですが、亡者の業は自然に自らの足を運ばせて、それぞれの本有へと向います。ここで中有が終わるので満中陰というのです。


 さらに、その六道輪廻の業が定まった後もその業を浄化する審判の道があるのです。百ヶ日は平等王(びょうどうおう)一周忌は都市王(としおう)。三回忌には五道転輪王(ごどうてんりんおう)と十王すべての審判が終わるのです。


 ここで大事なことは、残された親族、縁者による追善供養・回向がどのように営まれるかということです。追善の功徳は、その七分の一が先亡のために、七分の六が追善を修する施主やその拳族に及ぶといわれてます。


 主として、七日ごとの中陰について考えてきましたが、わが国では十王経などによって追善供養は平安時代から盛んになったといわれています。ご供養をするといいますが、そのやり方には色々あります。仏前でお経を読むのもそのひとつです。また、五種供養といって灯明・香・水・花・飲食を供えることや、四種供養といって香華・合掌・礼拝・慈悲心など色々ありますが、要は、仏様・その教・教えに帰依するつどい(仏法僧の三宝)に身・口・意を浄らかにして供養の誠を捧げる事です。

合掌

※参考 
初七日・・不動明王  二七日・・釈迦如来  三七日・・文殊菩薩
四七日・・普賢菩薩  初命日    五七日・・地蔵菩薩
六七日・・弥勒菩薩  七七日・・薬師如来  五十五日
百ヶ日・・観世音菩薩 一周忌・・勢至菩薩  三回忌・・阿弥陀如来
七回忌・阿しゅく如来 十三回忌・大日如来  十七回忌・・大日如来
二十五回忌・愛染明王 三十三回忌・虚空蔵菩薩 五十回忌・・愛染明王

一日を二倍に

さて、いよいよ十二月になりました。十二月は師走というぐらいですから、何となく気忙しくなります。
いそがしいとは、漢字で「忙」と書きます。立心偏に亡うですから、心を亡うことです。そういえば、「忘れる」という文字も「心を亡う」と書きます。
いずれにしろ、あまりいいことではありません。多忙をきわめて時間に追われている人が、一日を倍にすることはできないものかと思うことがあります。
そんなこととお思いになるお方もおいででしょうが、それができるのです。一日を二倍にする方法を考えた人がいます。
大変人気のある油絵の画家がいました。絵の注文の多いのは勿論のこと、そのほかに講演だ、対談だとひっぱりダコになりまして、からだがいくつあってもたりない。
第一肝心の絵を落ち着いて描くことができない。ホトホト弱ったあげく、大変いいことを思いつきました。一日を二日にする方法です。
どうしたかと申しますと、茶室をつくり、そこにひと時静かに坐ることにしたのです。
それは、中国の唐代の詩からヒントを得たのです。


「只、ここに坐れば、一日は両日なり」


という詩です。そして、この茶室を「両日庵」と名付けました。


静かに坐り、心を落ち着ける。そうした時を持つことができれば、一日は二日の値打ちがある。


つまり、時間を量から質へと高めようということなのでしょう。


私達も、多忙をきわめた時、「両日庵」のことを思い出して、工夫してみましょう。なにも、茶室や坐禅室まで作る必要はありませんが、
心の中に「両日庵」を建てることはできると思うのです。第一只でできます。もっともすぐ消えてしまいますがね。
どうか長続きさせて、堅固な「両日庵」を心の中にお建て下さいますように。

極楽への思い


お地蔵さんの微笑み

お地蔵さんは、梵語(サンスクリット)で『オン、カァカァカァ、ビサンマエイソワカ』と唱えて拝みます。漢訳すれば、「微笑を忘れず、瞋らない(かっとならない)ことで、安らかに生きたい」という誓いを立てることです。
 『オン(俺)』は「アゥム」で、初めから終わりまでの「一切」を意味し、「帰命=お任せする」とも訳され、「かがむ、膝を屈する」の『南無』と同じように使われます。『カァカァカァ』は「ハハハ」(笑い声)をあらわし、『ビサンマエイ』は「不瞋」(いからず)、『ソワカ』は「成就」を意味します。
 お地蔵さんは、釈尊が入寂されて、弥勒さんが出られるまでの五十六億七千万年の間、すべての命を育む母なる大地のように、親しみやすい姿で救いの手を差し伸べてられています。お地蔵さんの微笑を取り戻したい今日この頃です。

優しい「カナリヤ」の歌

「思いやり」と「優しいぬくもり」を訴えているのが、西條八十作詞・成田為三作曲の童謡『かなりや』です。
 この歌は、大正七年(一九一八)に、鈴木三重吉らにより創刊された児童文芸雑誌『赤い鳥』に初めて詩・曲がそろって発表されたものです。
 歌を忘れた金糸雀(かなりや)を「後ろの山に捨てましょか」「小藪に埋けましょうか」という子供たちに、お母さんが、「人間でも鳥でも落ち込む時があるのよ。もっと美しい声で唄おうと苦しんでいるのよ。象牙の船に銀の櫂をつけ、月夜の海に浮かべれば、忘れた歌をも思い出し、きっと美しい声で唄いだすでしょう。」と導くのです。

王舎城の悲劇と浄土への思い

ポリネシアの原住民たちは、死の直前に自分の好きな星を指差しながら、「私は死んだら、あの星に住む」と言いつつ、息を引き取るそうです。
『観無量寿経』では、悲惨な血肉を分けた親子の葛藤の末に幽閉されたい韋提希(いだいけ)夫人が、釈尊に救いを求めます。釈尊は「心から懺悔し」「正座して西に向かい、沈みゆく太陽が、お世話になった人や自然に、感謝の想いを込めて、言葉なく、一番きれいな茜色に染め尽くす」一心不乱の『日想観』に浸れば、安らぎが得られると説いておられます。

九州西教区「一口法話集」より

勤行の勧め

妙法蓮華経法師功徳品第十九には仏滅後、法華経と受持、読誦、解説、書写する人は多くの功徳が有ると解かれております。我宗では「朝題目、夕念仏」と言い、朝の勤行は法華経を読むこと、まず自分の身を浄め、洗面を済ませ御仏壇をきれいに清掃する事、本山の比叡山では、一、掃除、二、看勤、三、学問と掃除する事を口うるさく言われました。今でも比叡山の西塔浄土院では、助番の人や律僧様は伝教大師様の墓所を塵一つ無いよう、勤めていらっしゃいます。お仏壇には、五供養(花、線香、燈明、飯、水)、霊位にはお茶を供える事が多い思います。この五供養をお供「天台宗勤行儀」の読誦を勧めております。朝は今日一日の無事を御本尊様にお祈りします。読誦するときは必ず声を出して唱えるよう申し上げております。声を出す事により本尊様に祈願する気持ちが心の底からわき出て来、それを続ける事により日常生活の生き甲斐となり、お仕事中でも、いつもお守りいただいている事を深く感じるようになります。夕は極楽浄土の本願、阿弥陀仏に後生をお願いするお参りで、若い人には西方極楽世界の阿弥陀様の事を言っても縁遠い感を受けますが、私たち日常生活をしているこの世が極楽浄土だと本尊様からの導きを頂き、感じるようになります。忙しい世の中です。交通事故を始めいろいろな災難の多い世間では本気で、おすがりする気持ちが湧いてくるよう、毎日勤行儀を読誦する事を楽しみにして頂きますとその功徳により家庭の平和、世の中の平和を祈り、天台宗が率先して取り組んでいる世界宗教者の平和の祈り、世界宗教サミットにつながる道だと信じております。まず伝教大師が唱えられた「道心」をアピールし「一隅を照らす人」をたくさん世に送り出さねばならないと決意を新たにし、天台宗開宗1200年の節目の意義と考えております。

合掌

今日



人の幸せを計るバロメーターは、その人が一日一日をいかに大切にして、一所懸命に、暮らしているかどうかではないでしょうか。.
 良寛さんは、「さしあたる、そのことだけを、思えただ、かえらぬ昔、知らぬ行くすえ」と歌われたように、今を大切にして、どのようにして、今日一日を、有意義な、生き方をするかではないでしょうか。
過去に戻ることは出来ないのであり、過ぎ去った事を、いろいろと悔やむ人がいるが、愚かな事であり、未だ来ぬ先のことを、いろいろと、思い巡らす人がいるが、先の事は、知らぬ事であり、過去に拘わらず、明日の事を思わず、今日の日を、いかに真剣に生抜くことが、成功の道であり、自分にとって、今日何をやらなければならないのか、今、自分が何をなすべきか、よく弁え、今日の日を、有意義に、生きる事が、明日えの新たなるつながりではなかろうか。車でも、不完全燃焼では、事故の鯨飲になりかねないし、万全の整備をして、完全燃焼で、運転することが、一番大切なことであり一日一日を全生涯だと思い、釈尊の教えにもありますように「今日なすべきことを明日にのばさず、確かな今日としていくことが、よき一日を生きる道である」今日という一日は、一生の一部ではなく、一日が自分の、全生涯であり、又「時は今、ところ足元、そのことに、打ち込む命、永久のみ命」人生は一瞬、一瞬の、積み重ねであり、今、何をやり遂げたか、今日をいかに有意義な暮らしをしたか、ではなかろうか。今やるべき事は今やり、今日すべき事は、今日の日に行い、明日へ持ち込むようなことは避けたいものである。「明日があるからいいじゃないか」と言う人がいるかも知れないが、それでは、物事は、何時までたっても成就しないのではなかろうか。今日一日、日々新、日々新たな気持ちで、生活することが、大切ではなかろうか。今日と言う日を、一所懸命に生きることは、簡単なようで難しい。人生にはリハーサルはないのであって、一日一日が、筋書きのない真剣勝負のドラマであり、戻ることの出来ない旅ではなかろうか。明日のことが分からないといって、今日一日をいいかげんに生きるのではなく、今日一日を誠実に生きていくことです。たとえ苦しい事があっても、今日一日だけと思えば耐えることもできるし、楽しいことがあっても、一日を区切りと考えればその楽しさに、溺れることなく、生きる事ができるのではないでしょうか。

「この秋は、雨か嵐か知らねども、今日のつとめに、田草とるなり」

合掌

国分寺・東大寺と戒壇



中大兄皇子と中臣鎌足による大化の改新は唐の法治体制に倣ったもので、その基本思想は儒教であり、仏教に対しては唐の※道僧格に準じた僧尼令を以て統制する事になった。※僧尼令は養老律令に明文化されているが、すでに天武天皇代の飛鳥浄御原令に基本はあったものと推定される。なお道俗僧格は唐初貞観(637)に制定され、道士・女冠、僧尼の取り締まりを目的とした格(律令を補完する法典)である。


 聖武天皇が天平十三年(741)三月に発布した国分寺建立の詔に、みずからの不徳を慚じ、「国泰らかに民楽しむにはいかなる政化を修すべきや。この金光明最勝王経を講宣し読誦して世に流布せしめば、四天王が常に擁護し、一切の災いが除かれると記されている。それ故、天下の諸国に金光明四天王寺護国寺(僧寺)と法華滅罪之寺(尼寺)を建てたい」と述べている。


 この詔を出す前、すでに天武天皇の頃から、四方の国に人を派して金光明経や仁王経を説かしめ、仏像や経を礼拝供養せしめた先蹤があり、国分寺はそれを大きく結実させたもので、後には全国の国分寺六十八、国分尼寺三十が造られている。それは国司による諸国統治と民衆教化を併行させたものであり、正に仏教国教化の体制といえるであろう。


東大寺は、初め聖武天皇が奈良東山に金鐘寺を建て華厳経を講ぜしめたが、やがて天平十四年、盧遮那大仏造立を発願して、七ケ年を要して天平勝宝元年(747)に完成した。すなわち全国の国分寺を統轄する総国分寺の理念を持ち、諸国国分寺と同じく金光明四天王護国之寺と称する。しかしいわゆる本末関係はない。一説として盧遮那仏の臺座の蓮瓣は華厳経の結経である。梵網経巻下の左の文に據るものとされる。


 一国に一釈迦ありて各々菩提樹に坐し、同時に仏道を成ず。この千と百億の釈迦は盧遮那を本尊とし、各々微塵の衆に接す。


すなわち盧遮那仏は中央の蓮華臺座に坐し、周囲をとりまく千の蓮瓣には、千の釈迦が居られる。その一枚の蓮瓣には百億の国があり、その一国には一釈迦が菩提樹の下に坐して一斉に成道するが、この千と百億の釈迦はすべて盧遮那と本身とし、且つ各々無数の衆生に接している、というのである。つまり中央の盧遮那仏は東大寺に、蓮瓣の釈迦は全国之国分寺に坐して、無数の民衆に接して教化の説法をしているという。※実に壮大な構想であり、国家仏教の具現ということになろう。


※家永三郎作「上代仏教思想史研究」第二部三「東大寺大仏の仏身をめぐる諸問題」二四九頁、二五九頁。(昭和十七年、畝傍書房刊)なお華厳経では、本仏は毘盧遮那仏であるが梵網経では盧遮那仏である。


しかし一方、僧尼・寺院を管轄する僧尼令は、天武天皇以来の律令を踏襲し、その制約の厳しいことが指摘されている。そしてこの法令を施行するのは千部省玄蕃寮の司直であり、また僧網の僧官が参与している。


僧尼令の要点を概説すれば、そのもととされた唐の道僧格では儒教的法治主義に基づくものとされているが、僧尼令では必ずしも儒教思想ではなく仏教にもとづくものもあり、特に小乗四分律に共通する條項が多い。そして僧尼をして寺院の境域内に限定し、別に道場を建て、衆を聚めて教化し、みだりに罪福を説くことを厳禁し、また山林修業に対して厳しく制約を規定している。そして本来は教団がもつべき得度、授戒の権限までも。治部省玄蕃寮の発行する度縁・戒牒によって証明されるのであって、僧尼はいわゆる官僧であり、もっぱら寺院の内に在って天皇と国家の安寧を祈るため、律令政府によって任命された司祭者の地位に在った。※


※高取正男「律令国家と仏教」(「日本仏教史」1古代編、第三章「奈良仏教」3,一一七頁~一二七頁、昭和四二年、法蔵館刊)


僧網は推古三十二年に設置され、大僧正、僧都、律師等の僧官が置かれ、僧尼の出家得度、受戒、僧籍の帰属等に権限をもち、また諸国国分寺への講師・読師の任命や派遣にも関与した。そしてそれらの位官には主に南都七大寺(東大、興福、元興、大安、薬師、西大、法隆など)の高僧が宛てられている。いわば僧尼令とそれを運用する玄蕃寮の俗官との間の緩衝地帯の役割でもあったが、一一の事例における去就には微妙な場合もあったことが推測される。


続きは来月にてww

国分寺・東大寺と戒壇(続き)

当時の寺院としては、百済大寺(大安寺)や飛鳥大寺(元興寺)等の「大寺」と称する官寺があり、各寺に寺主、法頭、都維那の三綱がおかれ、寺院の運営や僧尼の取り締まりが行われた。興福寺は藤原氏の氏寺として建立されたが、天平時代には大寺として待遇され、法隆寺も大寺の中に加わり、薬師寺、西大寺を併せて南都七大寺と称され、また延暦十七年の太政官符では弘福寺、四天王寺、祟福寺が加わり、十大寺が定められている。このほか奈良朝末から平安初期にかけて頻りに官符が出され、中央及び地方に官寺に準じた定額寺が定められ、供田や稲が施入された。別当や三綱がそれを検校するのであるが、これには天子の御願を奉じ、国家護持をいのるべきことが記されている。


ところが奈良朝末から僧尼令による戒飭の勅が実に屡々出されている。「沙門ほしいままに本寺を去りて山林に隠れ住し、人の嘱託を受けて或いは邪法を行う。欺くの如き徒、同じく許さざる所なり」という如くである。それは上記のように僧尼は官吏に準ずるものだからである。そしてその例証として、諸国に遊化して民庶を教化した行基が、弟子とともに「妄りに罪福を説き百姓を妖惑す」として弾圧されたことが挙げられる。また文武天皇三年(六九九)役行者小角は伊豆島に流されたが、それは小角が葛木山に住し、呪術を以て世間を妖惑したため、と続日本記にしるされている。


役小角は優婆塞であって出家僧ではなかったが、このような祈祷の修行者が多かったようで、また課役を逃れるために髪を剪って出家する私度僧や偽濫僧が少なくなった。


それとは別に、天智天皇のころから頻りに山寺の記録資料が見えてくる。


先ず天智天皇七年、大津宮に近い志賀山中に建てられた祟福寺があり(日本記略延喜二十一年条)、次に和銅八年以前に近江国比叡山に精禅処が建てられ(懐風藻武智麻呂伝)、大和泊瀬(はっせ)の上山寺(続日本記・霊異記)、大和高市郡の壺坂山寺(三代実録)、添上郡の香山寺(続日本記)、高市郡の法器山寺(霊異記)、高市郡の子島山寺(延暦僧録)等々数え切れない。それらは堂塔伽藍の整備した公許の寺とは思われず、私寺に類したものであろうが、この他にも多くの山があった。また孝徳天皇即位前紀に古人大兄皇子が「臣願わくば出家して吉野に入り、仏道を勤修して天皇を祐け奉らん」といって落飾し、天智十年紀に大海人皇が「天皇の奉(おほ)ん為め出家せん」と請うて吉野に入ったという資料があり、当時吉野山は神仙の境として憧憬の地である。仏道修行のため入山する者が多かった。最澄の顕戒論巻中に「比蘇の自然智」というのは、榮叡・普照らが戒師招聘に際し、鑑真より前に来朝してもらった道叡のことであるとされる。「比蘇」とは吉野山の異称であり、道叡が吉野において虚空蔵法を修して自然智を得たことから来た呼称とされている。また同じ最澄の法華秀句巻上末に、法相宗の義渊をして比蘇の自然智宗の人としているように、吉野山で虚空蔵法を修す人が続いた。霊異記巻上には「吉野比蘇寺」の阿弥陀像が光を放ったという話を載せ、鎌倉時代の太子伝古今目録抄には「此の寺を又現光寺と云ふ」と記している。


さて奈良時代末期の大問題は、唐僧鑑真による戒壇院建立のことである。仏教が伝来した初め、朝鮮や中国から僧侶が渡来したが、日本人としては推古時代に始めて善信、禅蔵、惠善の三尼が出家した。しかし三師七証(戒和尚、羯磨師、教授師と七人の証明師)の授戒師による授戒の制度が無かったため、三尼は百済ヘ行って受戒したといわれる。その後も制度が整わないため、占察経などによって自誓受戒(仏前に誓って戒を受くと観念し、その証明として夢に好相を見ると称す)を以て受戒したという、極めて漠然とした伝承が残されている。


この説には少なからず疑問があるが、ともかく栄叡・普照の二人の僧が唐へ渡って伝戒の師を捜しに行き、五度の遭難を経て六度目の天平勝宝六年(七五四)鑑真は来朝した。そして東大寺に戒壇院を造り、ここに初めて具足戒の授戒が行われ、大僧(正式の比丘)が生まれた。


さてその鑑真の戒は四分律に據っている。四分律は小乗の部派の戒律で、姚秦の弘始十二年(四二〇)羅什に」よって漢訳されたが、唐初の道宣(五九六~六六七)は四分律行事鈔六巻や戒壇図経等を著してこの律を解明し、授戒の儀則を整備した。そのため道宣以後には彼の南山律宗が盛行したが、そこに説かれる比丘戒二五〇戒、比丘尼戒三八四戒の授戒が鑑真授戒の骨子である。


鑑真は戒壇院主の位置を退いた後も、唐招提寺において布薩説戒を行い、戒律の普及に努め、また天台学の造詣があったため、その四分律は単なる小乗律ではなく、部分的には大乗に通ずる「分通大乗」の律であるともいわれる。しかし本来的にはやはり小乗律であるために、比叡山の最澄からは小乗律として棄捨すべきものとされた。

※宗教教育テキスト「佛教のあゆみ」より

道心なり

皆さんは『陸(おか)に上がった河童』という言葉をご存知だと思います。

 この妖怪視されている河童は、水の神様であり、水の中ですと自由自在に、しかも怪力で人や馬までも水の中にひきいれたりしますが、陸に上がるとからっきしダメで、しかも頭の皿の水が渇くと立っていることも出来なくなります。つまり、自分に合った環境以外では、能力を発揮することが出来ない人を形容していう言葉です。しかし、『餅は餅屋』というように、このことなら彼しかいない、というふうに、その専門分野で貴重な人は沢山おります。

 比叡山を開創した天台宗宗祖、伝教大師最澄様は、


  『一隅を照らすもの、国の宝なり』



といっておられます。現代風に言うと、職場などで、自分の職掌を全うして、なくてはならない人であり、その知識や技術によって、他の人が受ける恩恵が大きければ大きいほど、その人は大きな宝であります。八方美人の七貧乏といって、何をやっても中途半端な人よりもずっと世の中のために貴重な存在です。


 人間は努力する事によって、自分を磨き育てる事が出来ます。しかし、一つの事が完全に出来なければ、何をやっても同じです。一部分でもその奥の奥は無限です。与えられた持ち場や、自分の選んだ職場では、何時も研鑽を怠らず、一生懸命勤めることによって、あなたの価値観が高まります。その心掛けを『道心』といい、この『道心』ある人は、国の宝となるでしょう。

  『一隅を照らすもの、国の宝なり。宝とは道心なり。』


 一隅を照らす運動は、私たち天台宗の指針であり、仏教の根本精神です