名島弁財天別当
御本尊
薬師如来「承応三年七月吉作之摂州大阪妄阿彌門流大津師宗慶」と体内にあり別本尊大弁才天女
年中行事
彼岸会・花祭り・薬師会・盂蘭盆会・初巳祭・巳巳祭・巳成金
縁起
寛永年間島原で天草一揆が起こり、幕府はこれを制圧するため九州の諸大名に攻めさせた。寛永十五年二月二十一日一揆兵の夜討ちにあい黒田藩の将として出陣していた岡田半左衛門利良と其の子佐右衛門正興共に銃丸に当たり戦死、利良の妻は尼となり藩主に請い博多御供所町に妙楽寺を再興し父子を埋葬するとともに父子の遺品を名島の古塁の麓に納めて精舎を建て、利良の家士手島半兵衛の次男で比叡山で修行していた真性坊俊道を開基とした。これが宗栄寺である。
弁財天縁起
名島宮は神功皇后三韓征伐の折その成就を祈って祀られたといわれている。又、慈覚大師が勧請したともいわれている。足利尊氏が菊地氏と多々良川で戦ったときその家来を弁才天の社務として置いた。黒田長政筑前の領主となり城を福岡に移した後、神宮寺を再建した快憲が弁才天社の社務を譲り受け別当寺となる。明治元年神仏分離令が公布され同三年神宮寺は廃寺となり弁才天は博多・芦屋と転々として名島に帰り宗栄寺が別当寺となる。
交通アクセス
電車西鉄宮地嶽線名島駅下車徒歩二十分車福岡都市高速名島で下り二分バス天神方面よりは福岡郵便局前より二十二番のバスで名島運動場前下車、徒歩五分
住職の閑話
東区あたりは神功皇后伝説が多く香椎宮は仲哀天皇を宇美町には神功皇后を祀ってある宇美八幡宮がある。名島海岸には神功皇后三韓派兵のおりの船の帆柱が化石になったものといわれる帆柱石がある。天正十五年豊臣秀吉西征し、その年小早川隆景を筑前の国に与え名島に城を築かせた、後養子秀秋に譲り慶長五年黒田長政が筑前の領主となる。秀吉が名島に来た折、弁財天の衰退しているのをみて「あるほどの宝は人に施して、なにもなじまの弁財天」とよんだといわれている。黒田長政は城を福岡に移した時、建物石垣にいたるまで運漕したといはれる。寺には、黒田長政・忠之・光之三代の弁財天社にたいする寄進状が現存している。大正時代その頃東洋一といわれた火力発電所が名島に作られたが今は壊された。又名島には昭和の初めごろ水上機の飛行場もありリンドバークも来たことがあるとのことである。