観世音寺

天智天皇が母帝斉明天皇の追福を願って建立を発願

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御本尊

聖観世音菩薩
創建時には不空羂索観世音菩薩が御本尊であったが、平安時代後期に現本尊と交替している。なお「宗教法人観世音寺規則」にいう聖観世音菩薩は現在宝蔵に安置されている坐像を指すが、本堂安置の現在の御本尊は立像の聖観世音菩薩(杵島観音)である。

寺宝

国宝銅鐘重文不空羂索観世音菩薩像重文兜跋毘沙門天像他多数

年中行事

観音会(毎月十八日)

縁起

『続日本紀』和銅二年条によれば、筑紫観世音寺は、百済救済のため西下し、福岡県の朝倉橘広庭宮で崩御された母帝斉明天皇の追福のために、天智天皇が発願されたことが知られる。寺の完成を意味する供養は天平十八(七四六)年のことで、僧正玄の指揮のもとに、天智天皇の発願から約八〇年の時日を要した。しかしながら、堂塔の完成はそれにかなり先立っている。天平七(七三五)年に起きた大宰府管内の疫病退散のために、部内の神祗に奉幣し、「府大寺及別国諸寺」に金剛般若経を読経させたことが『続日本紀』にあるが、この府大寺は観世音寺のことで、寺としての活動が認められる。住僧に行事の時を告げる銅鐘(現存の国宝)が天武十(六八一)年に筑紫大宰丹比真人嶋から貢ぜられていることや、朱鳥元(六八六)年の封戸の施入、同年の大和川原寺からの伎楽の移送などを考えれば、六八〇年代に主要堂塔は完成している。供養の遅れは、本尊不空羂索観世音菩薩の典拠「不空羂索呪経」の導入期から、本尊決定の遅れによるものであると思われる。

交通アクセス

電車JR二日市駅下車、西鉄五条駅下車。車九州自動車道を太宰府ICまたは筑紫野ICで下り、国道三号線で太宰府市役所を目指す。市役所の西二〇〇m。

住職の閑話

二〇〇四年秋、観世音寺で九州初の授戒会が開かれた。本寺は古代の三戒壇の一として知られている。これに対して宗祖最澄は、大乗戒のための戒壇を比叡山につくろうとし、没後の八二二年に勅許を得ている。これから三戒壇と天台宗戒壇は対立的に考えられている。一二九八年に宇佐宮年分度者が本寺で登壇受戒した記録がある。これは登壇のの順をめぐって宇佐宮と内山寺が五年前に争った事件の結末で、受戒の権利を確保した宇佐宮側が勝利している。敗れた内山寺は天台宗山門派に属しており、本来、比叡山で受戒すべきはずであるが、観世音寺戒壇で受戒している。つまり中央はともかく、九州では天台宗僧の受戒が三戒壇の一である観世音寺で行われており、天台宗戒壇設置の意義との関連で注目できる。このたびの授戒会が本寺で開かれたのは歴史の再現であって、感無量のことであった。