諫早藩主一家の安泰と領内全般の安寧祈祷寺
御本尊
不動明王
諫早市史等の史料に拠ると、温泉山(雲仙)七百坊の本寺本尊であったが、天正年中(一五七三~九二)島原領多比良村其外、近隣の耶蘇教徒(キリシタン教徒)が温泉山の堂社仏閣を残らず焼失せしめたが、幸いにも、堯珍法師らが、命がけの救出で持出したと記載されている。
ご詠歌
ひらやまの医王の慈悲をおろがみて今も変わらぬ法の灯てらす
寺宝
薬師如来、愛宕社、歓喜天、元三大師、十六善神、刀剣(八幡大菩薩)
年中行事
修正会、涅槃会、護摩祈祷、春秋彼岸会、釈尊降誕祭、施餓鬼会、盂蘭盆会
縁起
当寺の現在地での開山は天正十六年(西暦一五八八年)という。開山は堯珍法師で、堯珍は、もと島原温泉山七百坊惣座主であった。天正年中に島原領多比良村其外近隣の耶蘇教徒が温泉山(雲仙)の堂社仏閣を残らず焼失せしめた。堯珍は二矢を負って島原領湯江に逃れ、更に賊徒の来襲を恐れて遂に諫早(当時は伊佐早という)に来たり、船越村本坊に住したが数年を経て、鼻祖竜造寺家晴公、二代直孝両代の庇護を迎ぎ、平山山平等院平仙寺に安住した。のち諫早家代々の安泰と領内安寧の祈祷寺として応分の寺領を与えられ、それより、代々法印住職となる。この間諫早家並びに藩からの寄進とともに諫早藩家老職の早田家からも、薬師堂建立や、この護持のための田畑の寄附等が多く寄せられ繁栄した。一方寺伝には比叡山延暦寺の直末にして、末寺には慈眼院と触内四坊(福緊坊、蓮乗坊、長円坊、願成坊)とともに愛宕社、八幡社、祇園社など多くの神社を支配下に置き、諫早藩の祈祷寺として隆盛したが、明治維新の神仏分離布告により諫早家の庇護も絶え末寺の一寺四坊みな廃絶となり、寺領はことごとく上地された。さらに祝融の災に見舞われて、旧観に徴することが出来ず茅葺の仮堂であった。さらに追い討ちをかけるごとく昭和二十年の農地解放令によって、すべての田畑も失い、栄枯盛衰を余儀なくした。時を経て昭和四十二年第二十六代亮諦師により、旧諫早家の建物を買取り本堂と庫裡に改築されたが、古家であったことから、現住職代の昭和五十九年庫裡等を新築、さらに土地区画整理事業を契機に、位碑堂を備えた会館及び山門を新築し現在にいたる。開山堯珍法師より当代まで二十七代である。
交通アクセス
長崎本線諫早駅下車。タクシーで五分バスターミナルより小ケ倉方面行にて上野町で下車(平仙寺前)