安生寺

慈しみの太田観音

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御本尊

聖観世音菩薩

年中行事

毎月十七日観音様恩日・修正会一月一日~一月七日・初観音一月十七日・花祭り四月八日・素真尼報恩祭八月十七日・七・五・三参り十一月十五日・除夜の鐘

縁起

本尊聖観音菩薩は、奈良時代養老六年(七二二)行基菩薩が一刀三礼の御作にて、小堂を建て奉安した事を起源とします。その後、八並長者は、権勢並ぶ者もない長者で、叔母の家には二十四人の子供が賑やかに長者を出迎え、もてなしを受け、帰りに、叔母に向かって「立派なお子が多勢で、うらやましい、千の倉より子が宝」というと「子が欲しければ、百姓を大事にしなさい」と、教えられ、長者は、百姓を慈しみ、間もなく待望の世継ぎが生まれ、続いて女の子が誕生した。美しい姫に成長し、柳河の長者にこし入れをしたが、二年もたたないうちに、両家の間に争いが起こり、八並勢が柳河勢を打ち破った事から、姫は生まれたばかりの赤児を連れて、八並家に帰された。長者は、「いったん他家へ、とついだら、もう八並の者ではない」と姫を追い返した。父のしうちに、泣き叫ぶ我が子を、抱きながら、あてどもなくさまよい歩いた。長者は、八方手を尽くして探させるうちに、丘の古井戸の中から、赤児の泣き声を聞きつけ、井戸に降りて見ると明るい水底に、まばゆいばかりの金色の観音様が、乳呑児を抱いて鎮座していた。長者は、姫とその子が観音菩薩になったのだと、その地に観音堂を建てた。それが今日の太田観世音だと言う。子の無き人には、子を授け、乳の乏しい人は、乳を与えるという信仰が、今日もうけ継がれている。

交通アクセス

高速鳥栖インターチェンジより車で五分ほど。JR鳥栖駅から車で十分。西鉄小郡駅から車で十五分。JR田代駅より徒歩で十五分

住職の閑話

太田山安生寺にある石碑

この寺の境内西側は岡寺前方後円墳の一部である。正面石段を上ったすぐ左側には、石臼を転用した句碑がある。「山路来て何やらゆかしすみれ草」芭蕉の一句句碑の由来は不明。御堂の左手、太田素真像が有り、後の小山の頂き部分に「憲副賀島君」がありこの碑前で命日の四月九日供養が行われる。その下の東側に、緒方一郎の「影徳碑」その西側に「太田妙室光婆信女碑」がある。さらに西側に小山があるが、これが岡寺古墳の後円部で上を平にしている。平地の中央寄り南向きの人間の背丈に余る長方形の碑は、津田愛之助の歌碑。その前、東向きに並ぶのが、右から楠内友次郎津田愛之助、青木与三郎の招魂碑が並立する。太田山安生寺住職を勤めさせていただいておりますが、伝統ある安生寺を継承する責務の重さを痛感し、歴代庵主さまの偉大さを、しみじみ回顧いたしております。これよりは皆様の暖かいお心と共に、安生寺をお守りしていく所存でおります。